新人作家の登竜門的な存在だった貸本屋

──貸本屋のためだけに本を作っていた出版社がたくさんあったということは、貸本ビジネスの終焉とともに、一緒に消えてしまった出版社と本もあるということですね。

中川:たくさんあります。白土三平先生などは有名なので作品はまだ残っている方で、現存する貸本は高額で売り買いされています。

 当時の貸本マンガの版元は家族経営が多く、自転車操業のようにして回していたので、毎月何点もの新作を出さなければなりませんでした。そのため、たくさんの新作が必要で、貸本屋向けの出版社では、それほど上手くない新人作家の作品でも本にしていました。

 皆が高等教育を受けるような時代ではありませんでしたから、数多くの中卒の新人マンガ家が貸本マンガを描きました。

 マンガ家になりたいと思ったら、今は作品を描いて「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年マガジン」などの新人賞に応募する道がありますが、当時はまだそういうマンガ雑誌はありませんでした。その中で、貸本の出版社が新人作家の登竜門になっていたのです。

 ただ、ギャラはものすごく安く、それだけではなかなか生活していけないという金額でした。

 一方で、手塚治虫のように大手出版社の雑誌に描いているマンガ家は、桁が違う原稿料を得ていました。貸本マンガの出版社から作品を出している作家が、講談社などの大手出版社に移行するのはかなり難しく、実現したケースは極めて稀でした。

──日本のマンガの歴史を語る上で、中心的な存在だったマンガ家が手塚治虫さんでした。手塚さんがまだ専属アシスタントを雇っていなかった1954年には、臨時雇いのアシスタントとして、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、松本零士、永島慎二といった後のレジェンドたちがいたと書かれています。

中川:私が子どもだった1960年代には、手塚先生はすでに「マンガの神様」と呼ばれていました。ストーリーマンガを創った人ですから「神様」という呼び方は正しいと思います。

 手塚さんと同じ世代の人気マンガ家はほかにもいましたが、ほとんど名前が残っていません。なぜ手塚治虫がこれほど圧倒的に支持されたのかというと、手塚マンガが面白かったことと、亡くなるまで複数の連載を持つ現役だったという点が挙げられます。

 ただ、手塚マンガに影響を受けてマンガ家になった「手塚チルドレン」や、さらに石ノ森章太郎先生や藤子不二雄先生のように、手塚先生と交流があった「トキワ荘グループ」と呼ばれた方々が、後に手塚治虫に匹敵するマンガ家になって手塚神話を語ったという側面もあります。弟子も偉くなったので、その師である手塚治虫はさらに偉くなったということです。

──手塚治虫さんがファンレターに丁寧に返事を出していたり、ファンが会いに来ると家に上げて話をしていたりした、というエピソードが本書にはいくつも出てきます。