国際プロレスの2大エースと互角の戦い

 インター・タッグ王者として鶴田が馬場に次ぐナンバー2の地位を揺るぎないものにした75年暮れ、全日本は一大イベントを開催する。力道山13回忌追悼、アメリカ建国200年、全日本プロレス創立3周年の記念と銘打った『全日本プロレス・オープン選手権』だ。

「門戸を開放し、各団体から代表主力選手の参加を求め、広く対戦する機会を提供するもの」と謳った同大会は、前年74年から馬場に執拗に対戦をアピールし、日本選手権開催を迫っていた新日本の猪木に対する「参加すれば、貴殿が望む馬場戦実現の可能性もありますよ」という返答でもあった。

 猪木は「馬場と戦うのは日本選手権であるべき。お祭りには参加できない」と拒絶したが、全日本と友好関係にある国際プロレスからIWA世界ヘビー級王者ラッシャー木村、IWA世界タッグ王者のグレート草津&マイティ井上のトップ3が参加を表明。

 この年の10月30日に馬場に敗れている大木金太郎も雪辱を誓って日本プロレス代表として名乗りを上げ、フロリダを拠点とするフリーの大物でNWA世界ジュニア・ヘビー級王者ヒロ・マツダも参加。まるで日本選手権のような様相を呈した。

 さらに全日本代表として馬場、鶴田、ザ・デストロイヤー、アントン・ヘーシンク、外国人勢はドリー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ディック・マードック、ホースト・ホフマン、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナー、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、バロン・フォン・ラシク、ミスター・レスリング、マンテルといった錚々たる顔触れがそろった。

 NWA会長のジャック・アドキッセン(フリッツ・フォン・エリック)が「馬場はアメリカ・マット界を空っぽにする気か!?」とぼやいたというのも頷ける。

 わずか12興行の大会のために「総勢20選手では総当たりリーグ戦は日程的に無理だが、トーナメントにするのはもったいない。ファンの希望を反映したカードを優先的に組みたい」と発表されたが、これは猪木が参加することを想定してのものだった。

 大会発案者は鶴田、天龍の全日本入りを手引きした馬場のブレーンの元ベースボール・マガジン社顧問で筑波大学教授だった森岡理右。

「あれは猪木を黙らせようとしてやったこと。『オープン』という名称にしたのは〝対戦したがっている猪木さんに対してもオープンな姿勢ですよ〟という意味だから。それでガチンコの強い連中を集めてね。僕と馬場、原章の3人で〝一番手はホフマン、次にマードック、そしてレイス、よしんば猪木が勝ち上がってきたとしたら、最後はデストロイヤーを当てて……〟ってカードを全部考えていた。当時でもデストロイヤーは強かったからね。他にオコーナー、レスリング、ジョナサンといった錚々たる連中がいたわけだから、どうやったって猪木は勝てなかったよ」(森岡)