12月26日のアマリロ・スポーツアリーナの興行は『ドリー・ファンク・シニア・メモリアルナイト』。73年6月3日に急逝したシニアの追悼大会だけにファンクスに挑む馬場&鶴田は完全にアウェーだ。

 馬場&鶴田は、位置づけとしてはヒールとしての戦いを強いられてやりにくかったはずだが、1本目は馬場が河津落としでドリーをフォールして先制。2本目はテリーがダブルアーム・スープレックスで馬場を叩きつけて1-1のタイに。決勝の3本目はドリーが回転エビ固めで鶴田を丸め込み、トータルタイム41分19秒の熱戦を制したのはファンクスだった。

 73年10月9日の蔵前国技館に続いてインター・タッグ奪取に失敗した馬場&鶴田の師弟コンビは厭けた75年、『新春ジャイアント・シリーズ』終了後に「3度目の正直!」とばかりにテキサス州サンアントニオのミュニシパル・オーデトリアムでファンクスに挑んだ。

 この試合のポイントは開催地がサンアントニオになったこと。テキサス州であってもファンクスの地盤ではないのだ。

 日本の国土の約1.85倍のテキサス州には、ファンクスがアマリロを拠点に主宰する『ウェスタン・ステーツ・スポーツ・プロモーション』、フリッツ・フォン・エリックがダラスを拠点に主宰する『ビッグタイム・レスリング』、ポール・ボーシュがヒューストンを拠点に主宰する『ヒューストン・レスリング』の3つのプロモーションがあった。

 当時のアメリカのプロレスのシステムはテリトリー制。それぞれの土地で、それぞれのストーリーが展開されており、今のような情報社会ではないから、アマリロのファンはダラスやヒューストンで行われているプロレスを知らない時代だった。

 もしアマリロで戦ったとしたら、馬場&鶴田がクリーンファイトをやっても前年12月と同様に地元の英雄ファンクスの敵として大ブーイングを浴びるのは必至だが、馬場&鶴田がブーイングを浴びる姿を日本テレビが放送するわけにはないかない。

 今でこそ当時のアメリカ・マット界では日本人がヒールだったことは常識になっているものの、当時としてはタブーだっただけに、アマリロを避けてエリック傘下のサンアントニオを決戦の舞台にチョイスしたのは懸命だった。

 当時のエリック傘下で、のちに『サウスウェスト・チャンピオンシップ・レスリング』なる独立王国を作るジョー・ブランチャード(タリー・ブランチャードの父)の地盤のサンアントニオでは、ファンクスはヒールとしてファイトしていたのである。

 結果、サンアントニオのファンに馴染みのない日本人の馬場&鶴田がベビーフェースとして特に支持されることもなかったが、日本と何ら変わらないスタイルで戦うことができた。

 1本目は馬場がテリーをココナッツ・クラッシュ、16文キックのラッシュからバックブリーカーでフォール。

 2本目はファンクスがダブル・ブレーンバスターで馬場を攻略して1-1のタイに。

 決勝の3本目はドリーが鶴田にブレーンバスターを仕掛けたが、ロープ際だったために鶴田の両足がロープに当たり、ドリーに覆い被さるような形で落下。そのままスリーカウントが入った。

 ラッキーな勝利とはいえ、決勝フォールを鶴田が取ったという事実は大きい。そしてサム・マソニックNWA会長が馬場と鶴田の勝利を祝福するという絵も、このインター・タッグ王座が権威あるものだとイメージ付ける効果があった。マソニック会長は、馬場がミズーリ州セントルイスから立会人として招待したのである。

 このインター・タッグ獲得は鶴田にとって初戴冠。そして馬場&鶴田が全日本の看板コンビになったことで、鶴田のポジションは揺るぎないものにした。

75年02月05日インター・タッグ奪取。NWA会長サム・マソニックも祝福