謙信の急死

 ところが謙信は急病により、春日山城で逝去することになってしまう。その死因は、近世以降の伝言ゲーム的な情報の錯誤から「脳溢血に倒れ、意識が戻らないまま卒中死した」と見られることが多いが、当時の一次史料を見る限りでは、「突然の腹痛に倒れ、遺言として景勝に御実城へ入るよう要請し、家臣たちに自身の形見を分け与えることを指示した」ことが判明している。

 上杉家の正史『覚上公御年譜』によると、謙信の葬儀は、景虎と景勝が上下の区別なく執り行った。景勝が御実城様、道満丸が御屋形様になる路線は、この時まだ変わっていなかったようだ。しかし、ここに暗雲が立ち込める。謙信の急死を知った会津の蘆名止々斎が越後侵攻を企てたのだ。

 止々斎は旗本の実城衆を派兵して、越後を大いに混乱させた。これが悲劇のトリガーとなる。現地守将の神余親綱は、謙信時代同様に指揮権を主張して、自己判断で防衛態勢を整えていたが、景勝はこれを独断専行であると非難した。ここへ栃尾城の本庄秀綱と御館の上杉憲政が仲介に入ったが、仲直りは出来ず、神余親綱は挙兵を決断した。

 しかも親綱に同情したらしい秀綱と憲政がこれに加担した。それだけではない。なんと景虎までもが、憲政に同調して春日山城を抜け出し、御館に移転した。ここで神余・本庄・御館の謀議があったのだろう。越後上杉の家督相続権は景勝ではなく、景虎にあるとして、大きな反乱を起こしたのだ。憲政もまだ幼児の頃、関東管領上杉当主に反乱する上野国の豪族たちに擁立されて、反乱軍の旗頭とされたことがある。

 このように「御館の乱」は、謙信が後継者を定めなかったから起きたのではない。反乱軍が象徴となるべき旗頭にふさわしい人物として、景虎を選んで擁立したことから、跡目争いの形になったのである。

 ちなみに同時代の史料によると、謙信の葬儀後と思われる事件として、景勝と景虎が何事かを言い争ったような記録がある。この神余問題(「三条手切」事件)が関係していたのかもしれない。

 こうして上杉分国の者たちは二派に分裂していく。

 景虎は、ここで積極策に出て、景勝を追い詰める。次回の後編では、景虎の思惑を見ていこう。

(後編に続く)

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