謙信の後継構想

 ところでこの時、謙信の後継構想はどうだったかという議論がある。景虎か景勝か──。

 これは、情報を整理し直すと、およその正答が見えてくる。

 まず、もし謙信が景虎を養嗣子に定めていたら、景勝に上杉の名字を与えるのは、混乱の種になりかねない。では、景勝が本命かというと、それも疑問である。なぜなら、謙信代々の通字である「景」の字をどちらも上に置いているからである。もし景勝が後継者であるならば、惣領らしく「景」の字を下側に置いて、「上杉顕景」と名乗らせるべきである。それをわざわざ下の名前まで改名させたのは、景虎と景勝に上下の区別をつけさせないという意思表示だったと考えられる。

 もう1つ考察材料がある。この時、謙信は景勝に「御中城」の称号を与えた。それまで謙信は国内と関東の武士たちから上杉家当主の正当な称号である「御屋形」と呼ばれていた。さらに法体となってからの謙信は、「御実城」の称号で呼ばれていた。景勝が完全なる後継者なら「御実城」の一字違いの「御中城」ではなく、「御屋形」と呼ばせるのが筋である。

 これから導き出せる答えは、拙著『関東戦国史と御館の乱』にも書いたが、謙信の後継者は、景虎と景勝のどちらでもなく、景虎の嫡男にするつもりだったと考えるのが妥当である。

景勝と景虎と道満丸

 謙信は景虎と景勝を後見する。景勝はその謙信同様の立場となり、景虎嫡男の道満丸を後見することを予定して、「御中城」なる前例のない新称号を与えられたのだろう。理想主義者である謙信の家風とも一致し、政治的にも極めてリスクの少ない後継体制である。

 ほぼ同時期、謙信は北条との争いを再開するにあたり、「北条氏政は景虎やその側近を見捨てた。だから許さない」という趣旨の宣言している。景勝の改名と称号制定により、景虎は越後で立つ背を失ったと見る人は少なくないが、実際は、謙信と景虎と景勝の3者が、しっかり合意して決定された出来事なのである。

 ゆくゆくは道満丸が御屋形様になり、景勝は御中城(謙信が没すれば御実城)様となり、景虎は越後の「御館」に保護される貴人・上杉憲政のように平和な生活を送る予定であったのだろう。