小平奈緒には自己顕示という欲求がない。
自分個人の喜びというよりも、切磋琢磨してきた仲間と喜びを分かち合うことのほうが大切なのだ。また両親やファンや茅野市の人や相澤病院の患者たちが喜んでくれることが、小平の喜びなのだ。
さらにいえば、金メダルや世界記録よりも、「スケート技術の追求に没頭し、滑りが変わっていく過程が、自分にとっては一番ワクワクしていた時間だった」というように、自分が成長していくことが、よりうれしいことなのである。
勝つことが人の価値を決めているのか
もはやオリンピックですら最重要ではない。「スケートの奥深さを知り、極めていくことの面白さに気付き始めた頃から、五輪が全てではないと思うようにもなりました」
小平はおよそアスリートらしからぬ感想を述べるようになる。
「平昌五輪で金メダルを獲得し、その後もW杯などで勝ち続けることができましたが、その頃から勝つことに意味を見いだすのではなく、人生の豊かさについて考えるようになりました」
もちろんアスリートである以上、勝ちたいと思わないわけがない。新記録も出したいと思ったことだろう。勝てないときにはとくに、「勝つことが人の価値を決めていると思い込んでしまっていた」こともある。
しかし「実際に自分が頂点に立った時、人の価値は順位などの優劣ではなく、もっと違うところにもあるのだということに気付くことができました」
説得力のある言葉である。しかしこれは、世界の頂点を極めたからこそいえる言葉ではない。凡百のスポーツ選手は頂点を極めても「人の価値」など考えることもなく、その頂点でのぼせあがって終わるのであろう。
2022年の北京五輪後、W杯までの間、ドイツのインツェルで合宿をした。「その時にフランスのウェアを着た若い女子選手が近寄ってきて声をかけられました。『あなたが何番で滑ろうと関係ないの。みんながあなたのことを好きなのよ』と。私のことをそうやって見てくれている世界のスケーターがいたことを嬉しく思いました」
わたしもすべてのスポーツ選手のなかで、小平奈緒が一番好きかもしれない。
2022年10月22日、小平奈緒は引退レースの500mで優勝し、有終の美を飾った。「ゴールに飛び込むだけ。もうここからは自由だ」という気持ちになり、五輪で金を獲ったときよりも、世界記録を出したときよりも、「心震える」レースだった。
現在は、信州大学の特任教授に任命され、学生たちに健康科学を教えると同時に、相澤病院では広報企画室に勤めている。また地域のスケート教室で子供たちにスケートを教えたり、講演活動も忙しいようである。
小平奈緒は、人に恵まれている。両親、結城匡啓コーチ、相澤病院の相澤孝夫先生。彼女がしあわせな人生を送るように願わざるを得ない。