左から、ヘルハルドゥス・ファビウス、エフィム・プチャーチン

(町田 明広:歴史学者)

◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①
◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか②
◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか③
◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか④

オランダの鎖国日本における外交

 17世紀以降の江戸幕府の対外政略は鎖国であったが、世界に開かれた「四つの口」(蝦夷・対馬・長崎・琉球)を有していた。長崎の出島では、欧米諸国の中でオランダのみが、通商を許されていた。幕府は開国に踏み切るまで、オランダから世界情勢を見聞しており、最後まで友好関係を崩さなかったのだ。

『長崎図』寛政8年(1796)国立国会図書館デジタルコレクション

 弘化元年(1844)、オランダ国王ウィレム2世は開国を勧告する国書を12代将軍徳川家慶に送付したが、幕府は拒絶している。また、嘉永5年(1852)、オランダ商館長クルティウスは別段風説書の中で、アメリカからペリー艦隊が派遣され、砲艦外交で通商を迫ることを幕府に事前通告した。

 その予告通りにペリーが来航し、嘉永7年(1854)には日米和親条約が調印され、続けてイギリス・ロシアとも条約を結んだ。オランダとはそれまでも通信関係があったため、やや遅れて安政2年(1855)12月に日蘭和親条約が締結されたのだ。

日本海軍の創設とオランダの恩恵

 老中阿部正弘は、早くもペリー来航(嘉永6年6月、1853)の1ヶ月後には長崎奉行の水野忠徳を通じて、オランダ商館長クルティウスに軍艦を発注した。また、対外政策(海防問題)について意見を求め、スンビン号(幕府に寄贈され、観光丸と改称)艦長ファビウス中佐から海軍創設の提案を受け取った。

 ファビウスは洋式海軍の創設を促し、士官・下士官等の乗船員養成のための海軍伝習(教師団の派遣)および留学生受入れをオランダが請け負うとの提案を行った。これを受け、水野はオランダからの軍艦購入、幕府海軍の創設、長崎海軍伝習所の設置を阿部に打診し、その許可を得たのだ。

「長崎海軍伝習所絵図」

 ここに、日本海軍の黎明期が始まったが、それをサポートしたのが、鎖国時代も交流があったオランダであったことは、歴史の必然と言えよう。なお、幕府の留学生は諸藩がイギリスを中心に派遣したのに対し、当時欧米では弱小国であったオランダに集中した。これは、それまでの関係を重視し過ぎた結果である。