徳川家斉徳川家斉(写真:akg-images/アフロ)

 昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康が天下人となり、1616年に73歳で亡くなるところまでが描かれた。家康の存命中に、2代目将軍の秀忠の治世はすでにスタートしており、その後は家康の思惑通りに徳川家で将軍職は引き継がれていく。家康から徳川慶喜まで15人の将軍が登場することになったが、とりわけユニークな将軍が、11代将軍の徳川家斉である。55人もの子どもを残し“オットセイ将軍”とも呼ばれた家斉は、どんな人物だったのか。『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

武家で太政大臣となった数少ない人物

 徳川第11代将軍の徳川家斉は「55人もの子どもを残す」という、徳川将軍家のみならず日本史においても稀有な人物である(死産や流産のカウントの仕方により「53人」や「57人」ともされる)。

 側室は40人とも50人ともいわれているから、すさまじい。言うまでもなく、子どもの数は徳川将軍家のなかでダントツに多い。

 そんな「子だくさん将軍」の家斉と、初代将軍の徳川家康には、ある共通点がある。それは、朝廷の最高職である「太政大臣」の位を得たということだ。

 武家で太政大臣になったのは、平清盛や足利義満、豊臣秀吉、徳川家康と徳川秀忠のみであり、家斉はその6人目に名を連ねることとなった。

 錚々たる顔ぶれの一員となった家斉は、どんな人物だったのだろうか。