1950年6月25日に、金日成が韓国へ侵攻し、朝鮮戦争が始まった。実は、その準備過程で、スターリンは金日成に対して、中国の賛同が必要だと述べたが、毛沢東はその要請を受け入れ、参戦する。

 その見返りとして、毛沢東はソ連に軍事技術の移転を求めた。しかし、スターリンは機関銃など小火器製造技術の移転には応じたが、それ以上の移転は拒否した。それでもなお、毛沢東は軍用機や軍艦の製造のための技術移転を要求したが、スターリンは聞き入れなかった。

 朝鮮戦争は、膠着状態になり、1953年7月27日、休戦協定が締結されたが、毛沢東は、ソ連から軍事技術を移転してもらうために、朝鮮戦争の継続を望んだ。中国の参戦という貢献の見返りに軍事技術供与を求めるというパターンである。武器弾薬の提供の見返りに、軍事技術の支援を要請するという今回の金正恩も同じ手である。

 しかし、朝鮮戦争については、1月にはアメリカでアイゼンハワー政権が誕生し、3月にはスターリンが死去し、それらが休戦への道につながったのである。

毛沢東の原爆への執着

 1945年7月にアメリカが原子爆弾の開発に成功したが、遅れをとったスターリンは、1945年8月20日に、ベリヤを長とする特別チームに原爆開発を命じる。このチームは、あらゆる資源を動員して、スターリンの指示を実行し、遂に1948年8月29日にカザフスタンの実験場で原爆の開発に成功したのである。

 毛沢東は、原子爆弾の製造技術を入手して軍事大国となる道を模索した。しかし、スターリンはそれを拒否した。スターリンは1953年3月に死去し、フルシチョフ時代に移行する。

 翌年9月に中国は金門島を攻撃し、アメリカとの対立が激化する。これは、原爆技術移転をソ連に求めるための賭けであった。10月には、フルシチョフが訪中し、多額の援助を約束する。スターリンであったら、配下の国に自ら行くなど想像すらできないことである。今回、プーチンが北朝鮮訪問という金正恩の招きに応じたのは、ロシアの力の低下を感じさせる。

 スターリン後継のフルシチョフは、軍事技術の技術移転に関しては、スターリンほどの猜疑心を持たず、毛沢東の希望の多くを実現させるという甘い点があった。

 核開発に関しても、原子炉建設までは、渋々フルシチョフは認めたのである。1955年1月に江西省でウラン鉱床が発見されたこともあって、毛沢東は独自の原爆開発に取り組んだ。

 1956年10月には、反ソ連のハンガリー動乱が起こるが、毛沢東はソ連支持とバーターで原爆製造技術を要求する。フルシチョフはこれを容れたため、中国は原爆開発を加速化させた。しかし、中国の態度に不信感を抱いたフルシチョフは、1959年6月には原爆関連の支援を中止している。

 1960年には中ソ対立が始まるが、中国は核開発を進め、遂に1964年10月16日に原爆実験に成功したのである。

 今回は、金正恩がプーチンにミサイルなどの技術供与を求めたと思われるが、プーチンは、スターリンよりもフルシチョフに近いような対応を示している。それだけ、ロシアは国際的孤立を恐れているのであろう。

 中国はロシアと北朝鮮の首脳会談には無関心を装っているが、中ロの力関係が毛沢東時代とは大きく変化している。中国は、経済的にはGDP世界2位であり、軍事的にも航空母艦を生産できるほどの大国になっている。ウクライナ戦争後は、中国とアメリカが世界の覇権を争うことになる。朝ロとの良好な関係を維持するにしても、中国の最優先事はウクライナ戦争ではない。米中競争こそが重要なのである。

 いずれにしても、ロシアの軍事技術の移転によって、北朝鮮の核ミサイル開発がさらに進めば、東アジアの不安定要因が増す。二つの「ならず者国家」の握手は、歓迎すべきことではない。