明治以降、十山が減っていく

 そもそも江戸時代までは、「一」「い」「蛇」「長刀」「竹の先に鈴」などを加えた計10の山で送り火が行われていた。それが、歴史的エポックによって、段階的に数を減らしていく。

 最初は明治維新時。1872(明治5)年から1882(明治15)年まで、新政府の命令で送り火はご法度になっている。これは、国家仏教から国家神道への切り替えによる。それまで神仏習合していた仏教と神道とを切り分けよ、との法令「神仏分離令」が出され、それに従わざるを得なかったのだ。こうした仏教にたいする迫害を「廃仏毀釈」と呼ぶ。

 つまり、送り火の中に「鳥居形」があることで、送り火全体が「神仏混淆(習合)」であるとされたのだ。送り火は本来、仏教行事なのに神社の象徴が灯されているという矛盾を解消することが目的だった。

 鳥居形の送り火は近くの愛宕山の「一の鳥居」を模したとの説が有力だ。愛宕山は江戸時代まで神仏習合の修験道の聖地であったが、廃仏毀釈によって現在は純然たる神社となっている。

 近代における送り火は、戦争にもしばしば利用された。日清戦争終結直後は2度、お盆とは無関係の時期に送り火が点火された。1895(明治28)年4月17日、下関講和条約が調印された後の5月15日である。明治天皇の入洛にあわせて「大文字」を灯す東山の如意ヶ嶽に「祝平和」の3文字が点火された。

 下関港講和条約の調印直後となる5月17日付『京都日出新聞(現在の京都新聞)』には、次のような記事が掲載されている。