被爆者たちが一人また一人、この世を去っていく
8月6日に会おう。もうたいぎい(しんどい)けど、追悼法要の世話人じゃけ、行かんにゃあ。たぶん車椅子で行くけぇ、また子どもたちも連れてきんさい。
そう約束していた濵井(はまい)德三さん(88)は、7月中旬に帰らぬ人となった。
6日に平和記念式典が開かれる、広島市中区の平和記念公園。そこは、1945年8月6日午前8時15分までは、広島屈指の繁華街だった。一角にあった理髪店の次男坊だった濵井さんは、78年前の今日、両親や兄姉を原爆に奪われた。疎開先にいて無事だった小学5年生の濵井さんは家族でただ一人、残された。翌々日、親戚に連れられて爆心直下の自宅周辺に行った。枕木に火が残る電車道を歩いた。川の中には無数の遺体が浮かんでいた。自宅は焼け落ちていた──。
映画館やカフェ、ビリヤード場、食堂など商店が立ち並ぶ街のあちこちでイタズラをして回った悪ガキ時代の思い出を、よく話してくれた。悲しい記憶を背負いつつ、それでも自分にとっては、楽しい思い出が詰まった街なのだと。いわゆる平和運動に関わるでもなく、ただただ、原爆が奪ったものが何かを伝えるためにたくさん語った。
毎年8月6日に公園内で営まれる追悼法要の主催団体の会長だった。昨年は、しっかりした足取りで、いつものように笑顔でお会いしたのに…。
先日7月30日は、80歳を過ぎてから被爆体験を語り出した在日韓国人2世の李鍾根(イ・ジョングン)さんが93歳で亡くなって1年となる日。ご遺族とともに墓参りに行った。
韓国原爆被害者対策特別委員会の委員長として、毎年広島原爆の日の前日に、公園内にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で営まれる慰霊祭に参加してきた。この日は特別な日で、故郷を離れた地で無惨な死を遂げた人たちや、被爆したのに日本人と同じ援護が受けられなかった人たちに、同胞として手を合わせるのだと言っていた。昨年、車椅子に乗ってでも行くと言っていたのが、慰霊祭を前に力尽きた。