大分県竹田市の豊後竹田駅(JR豊肥本線)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 昭和40年(1965年)、長崎県の佐世保市から18歳で東京に出てきてから、もう57年になる。半世紀以上だ。

 しかしそれだけいても、東京の人間になったという気がまったくしない。もっとも、そのうちの45年ほどは埼玉に住んでいるのだが、埼玉人になったという気はなおさらない。

 わたしは大分県の佐伯という町で生まれた。3歳頃にはおなじ大分県の竹田という町に転居した。滝廉太郎の「荒城の月」で知られる町だ。

 そこに小学3年(9歳)までいた。いまでも一番懐かしい町というと竹田であり、わが故郷というと、その町になる。

竹田市岡城跡にある滝廉太郎像

心の半分は竹田の町で育てられた

 人はその後の人生をどこでどのように過ごそうと、10歳頃まで育った場所の記憶が心身に沁みつき、その記憶をいつまでも引きずっているのではないか、という気がする。

 父の仕事の関係で、家族はその後も2、3年おきに大分市、佐賀県伊万里市、広島市、長崎県佐世保市と転居を繰り返した。わたしは小中高をそれぞれ2校ずつ行った。それが嫌だった。

 父母はその後も、長野県松本市、埼玉県浦和市と移り住んだが、父は定年後は佐伯に帰りたかったようである。もともと佐伯という町は、父の生まれ育った故郷だったのだ。

 しかし父が定年になる頃は、息子が4人とも東京に出てきていた。母は子どもたちのいる所に住みたいということで、東京暮らしを望んだ。父もやむなくそれに押されて、結局、東京都練馬区の大泉学園に小さな家を建てた。