わたしにとっては、とっくの昔に竹田市とは縁が切れていた。物理的にも、精神的距離においても、竹田ははるか遠くにあるものになっていた。

 しかしそうであってもなお、わたしの心の半分は竹田の町で育てられたといいたい気がする。川遊び、山遊び、路地、近所づきあい、城、神社、夏祭り、よく遊んだ仲良し3人組の記憶はいまも忘れない。

竹田市・岡城本丸跡

 いまでも兄弟と話す場合は、「よだきいのお」(考えただけで面倒だ、という意)とか「好かんのお」「きちいのお」(きつい)などの大分弁である。ただ語尾の「のお」は大分弁なのか広島弁なのか、方言が混じってしまってわからない。

「九州男児」という言葉はもはや死語だろうし、わたしもそんなことはどうでもよい。わたしは大分出身という意識はあるが、九州人という意識はほとんどない。

 大分市には小4から中1までいた。それでも昔のことを思い返すと、わたしの心はやはり竹田に向かう。そこで6年間を過ごしたが、小学1年からの3年間の記憶が強い。それだけ濃密だったのである。

 けれどその記憶にはもう現実的根拠がない。聞くところによると、わたしが通った小学校は随分以前に廃校になったらしいし、家族が住んでいた「魚町」という町名も別の名前になっているようだ。

 なにしろ、竹田の町を出て60年以上1回も帰っていないのである。わたしの記憶の中の竹田とはまったくちがった町になっているかもしれない。

 定年退職したら、1回は帰ってみようと思っていたが、生来のずぼらさで機会を失った。それこそ旅程の一つ一つを考えると、「よだき」かったのだ。

 いまのわたしの心境としては根無し草(五木寛之はかつてそのことを「デラシネ」と呼んだが、そんなカッコいいものではない)、あるいは故郷喪失者(これも昔は粋がって「ハイマートロス」といったりした)という感覚である。

佐世保から1日近くかけて東京へ

 大学受験のため、上京した日のことはいまでも覚えている。佐世保から特急で20時間くらいかかったはずである。

 東京駅が近づいてくるにつれて、林立する高層ビルが次々と現れ、「おお、これが東京か」と、昂揚して窓の外を食い入るように見ていた。

 2年前に東京に来ていた兄が駅まで迎えに来ていて助かったが、もしだれも知り合いがなくひとりだったら、さぞかし心細かったことだろうと思う。