淀殿と密通した男

 秀吉は、正室である寧々や多くの側室と日々情交を交わしていたが、いずれの女性との間にも子供は生まれなかった。

 だが、彼の側室たちは、前夫との間に子供がいた女性や、秀吉と別れて再婚し子供ができた女性も数多くいる。

 そのため、淀殿と秀吉の間に生まれた鶴丸と秀頼2人子供の父親はほかにいて、彼女が他の男と密通して成した子という風説は当時からかなり広まっていた。

 なかでも豊臣秀頼の実の父親は能書家で茶人の大野治長(大野修理)であるとの噂は、様々な記録や文書に残されている。彼は修理大夫だったため大野修理と呼ばれていた。

 毛利輝元の重臣・内藤隆春宛てに内藤元盛が送った書状には、

「一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候」

 また、毛利吉元が編纂させた『萩藩閥閲録』。奈良興福寺で僧の英俊ほか三代の日記、『多聞院日記』。16世紀後半からの徳川氏、諸大名の逸話・見聞集、『明良洪範』。朝鮮李氏王朝の官人・姜沆が諸大名の情勢などを記した『看羊録』にも、秀頼は淀殿が大野治長と密通して産まれた子と書かれている。

 さらに『看羊録』には、秀吉の遺言により家康が淀殿を娶ることになっていたが、淀殿の腹には、さらなる治長の子を宿していたため家康を拒絶したとある。

 ほかにも、『明良洪範』では淀殿が「世に名高き伊達者」と流行唄にも歌われた美少年・名古屋山三郎と不義を働いていたと記されている。

秀吉が盲愛した淀殿は若かりし頃に憧れた・お市の方の面影を色濃く残していたからといわれている