秀吉の側室たち
ルイス・フロイスが記した『フロイス日本史』によれば、秀吉には200人の側室がいて「甚だしく堕落した多淫な男」と評している。
戦国時代群を抜く女好きと評された秀吉が性愛行動に勤しんだ女性は、側室だけで生涯で300人以上いたとされる。
彼が重視したのは高貴な家筋と見目麗しい容姿だった。
大名家の女性たちの多くは、家の存続と繁栄のため秀吉への臣従の証として、その身を差し出された。
彼が高貴な女性を好んだのは、自身の身分が低い出自により長い間、卑賤な者と侮られてきた屈辱感への反作用だといわれている。
また、「容貌が麗しくも艶やかな美女がいる」との評判が耳に入れば、誰かの妻であろうが後家であろうが、関係なく我がものにしていた。
秀吉の側室で名前が分かっているのは20人ほどで、皆、蒼々たる大名家から嫁いだ女性たちである。
嫡男・秀頼を産んだ「淀殿」は、信長の妹・お市と浅井長政の娘。
「加賀殿」は前田利家の娘。「松の丸殿」は父・京極高吉・母・浅井久政の娘・マリア。「三の丸殿」は信長の娘。「姫路殿」は織田信長の弟・信包の娘。
ほかにも、「備前殿」は宇喜多直家の未亡人。「甲斐姫」は成田氏長の娘。「三条局」は蒲生賢秀の娘、「南の局」は山名豊国の娘などの名前も確認できる。