14歳の側室・加賀殿

 側室の中でも、特別扱いされたのが前田利家の三女・摩阿姫(まあひめ)。あどけなさが残る14歳の摩阿姫は35歳年の差の秀吉の側室となり「加賀殿」と呼ばれた。

 秀吉と利家は固い友情で結ばれ、秀吉の正室・寧々と利家の正室・まつの妻同士も古くから親交があった。摩阿姫は利家の正室・まつの娘ではなく側室の子といわれている。

 摩阿姫は金沢から秀吉に伴われて大坂に向かい側室となった。そして彼が待ち焦がれた初夜のこと。

 秀吉はべたりと畳に座り込んだ摩阿姫の美しい全裸像を改めてしげしげと見つめていた。女は線の綺麗な象牙色の頬をそむけたまま、長い睫を固くとじ合わせ、彼のギラギラした眼差しに耐えている。

 彼女は人間の感情をすっかり喪失させて男に命じられるまま、何か得体の知れぬ淫風の中に巻き込まれてしまったかのように、裸体をもどかしげによじらせた。

 時々夢うつつに睫を開くのだが、その目は濡れ光って婀娜っぽさを湛え、今までには見られなかった艶容さが表情に滲み出ていた。

 ほんのりと薄暗い闇の中、彼女は、深い翳りを帯びた妖しいばかりに色っぽい瞳を、じっと秀吉に向けた。

 秀吉の私生活をまとめた『豊太閤真蹟集 上』には、秀吉が摩阿姫に認めた文が記されている。

「一日はぎり(義理)の文給候、さためて(定めて)きやう(京)けんふつ(見物)にまいり候についてとおほしめし候へは、うらみとも存不申候、かしく 五月廿七日 てんかさま まあめの」

 冒頭、「義理で仕方なく書かれた手紙をいただきました」と自虐的なフレーズからはじまり、「でも、京の町を見物されている最中に書いてくれたのだから、根に持ったり恨んだりはしません」とある。

 加賀殿は病弱なため、たびたび有馬温泉に湯治に出かけたが、秀吉の加賀殿への手紙には、姫の体調を優先させるなど思いやるものもある。

「あすの晩に御こし候べく候。久しくあい申さず候まま。さてさて申し候。そなたへ参りたく候へども、聚楽屋敷まわりへ行き候事なり申さず」

(久しく顔を合わせていないので、明晩、わしのところにお越し下され。そなたのいる聚楽第に参りたいところだが、いま、そちらに行くことはかなわぬ)

「我ら我らに逢いたく候はずば、無用にて候」

(だが、もし、わしに逢いたくないなら無理しなくてもよいぞ)

 慶長3年の「醍醐の花見」の後、病気がちだった加賀殿は、23歳の時、静養を理由に暇をとることが許された。

 しかし、そのわずか2か月後に加賀殿は全快したものの、彼女が秀吉のもとに戻ることはなかった。

前田利家の娘で側室・摩阿姫(加賀殿)に宛てた「一日は義理の文給候」で始まる手紙。差し出し人は「てんかさま(秀吉)」