明倫学舎 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(15)「前原一誠と萩の乱①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72052
幕末維新人物伝2022(16)「前原一誠と萩の乱②」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72053
幕末維新人物伝2022(17)「前原一誠と萩の乱③」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72054

萩の乱の勃発と前原

 明治9年(1876)10月28日、前原一誠は奥平謙輔ら約200名を糾合して挙兵した。萩の乱の幕開けである。前原は熊本県の神風連の乱(10月24日)、福岡県の秋月の乱(10月27日)の勃発の報に接すると、旧藩校の明倫館を拠点にして挙兵のために同志を集め始め、殉国軍(前原党)を組織した。

 前原は当初、県庁襲撃を計画し、10月26日の実行を期して、須佐育英館長の坂上忠介や旧徳山藩の今田浪江らに参集を促した。しかし、県庁襲撃の計画が政府側に漏洩したため、前原は明治天皇への直訴を突然目指し、海路山陰道からの東上を始めたのだ。

 しかし、浜田に向かっている途上から悪天候で先に進めなかった。そのため、東上は断念せざるを得ず、江崎に上陸して情勢をうかがった。前原は明治7年(1874)2月に起こった佐賀の乱の際、諫早基清から決起を促されたものの、それに応じなかった。そのため、それ以降、相容れない関係になっていたが諫早が萩を占拠し、殉国軍への参加者の近親者を処罰しているという諫早党の流言に惑わされて、計画を再度変更することになった。

 このあたりの戦術は、行き当たりばったりの感が否めず、前原が用意周到に反乱を準備していなかった証左である。殉国軍が苦戦をすることは、始めから自明であったとしても過言ではなかろう。