前原一誠旧宅 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(15)「前原一誠と萩の乱①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72052
幕末維新人物伝2022(16)「前原一誠と萩の乱②」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72053

前原と戊辰戦争

 慶応3年(1867)12月25日、薩摩藩邸焼き討ち事件(三田品川戦争)が勃発し、事実上、ここに旧幕府対薩摩藩を主軸とした戊辰戦争が幕を開けた。慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、兵数では圧倒的優位であった旧幕府軍が破れ、徳川慶喜は海路江戸に脱出し、以後は新政府に対して恭順の姿勢を貫いた。しかし、旧幕府軍は東北を中心に抵抗抗戦を繰り広げ、戊辰戦争は翌明治2年(1869)5月の函館戦争まで継続したのだ。

 慶応4年6月、前原一誠は北越征討総督府参謀に抜擢され、同郷の山県有朋、薩摩藩の黒田清隆・吉井友実とともに、先鋒陣営にあった。参謀として長岡城攻略戦など、北越戦線で活躍した前原の功績は、生涯の中で最大のものであり、名参謀と称された。そのため、戊辰戦争の終結後に戦功を賞されて、賞典禄600石を賜っている。

長岡城 写真/フォトライブラリー

 ちなみに、藩士クラスでは西郷隆盛の2000石が最高で、大久保利通・木戸孝允・広沢真臣が1800石で続いた。前原と同じ600石は、山県有朋・山田顕義に加え、公家の醍醐忠敬であった。前原は長州藩の大身の出身で、松下村塾で学んだという実績に加え、幕末の動乱を生き抜き戊辰戦争でも戦功を挙げたことから、新政府での出世は確約されたのだ。