判決では、このふたりの関係について、冒頭の一文に「家族の生活全般を実質的に支配支していた」とあるように、「支配」する側とされる側の立場にあったことを認めている。

 その関係を構築する入口となったのが、「ほかのママ友たちが悪口を言っている」と、不安を煽ることだった。そして「私は味方だ」と他の「ママ友」を敵視させ、情報を遮断する。

 それこそ統一教会が信者を増やすのに、「不幸なのは先祖の因縁だ」「先祖の霊が地獄で苦しんでいる」「供養しなくてはいけない」「このままではあなたも地獄に堕ちる」などと持ちかけるのと同じだ。あるいは、教団の正体を隠して、ビデオセンターと呼ばれる場所に連れ込んでは、ビデオで教義を吹き込み、周囲を「サタン」と敵視して、部外者を遠ざけることとも、変わりはない。

「恐怖」と「救済」の重なり合い

 そして、暴力団関係者という“ボス”の存在。自分を窮地から救ってくれる畏敬の存在でありながら、裏切るようなことをすれば、手痛い仕返しが待ち構えるという恐怖が並存する。場合によっては、命の危険にまで及ぶかもかもしれない。それでも、“ボス”の指示に従い、期待を裏切りさえしなければ、これほど逞しい救い主はない。恐怖と救済が重なり合って、ここに服従の関係ができあがる。

 統一教会において“ボス”といえば、創始者の文鮮明であることは言うまでもない。もっとも、信者たちは彼を“ボス”とは言わずに、「お父様」と呼んでいる。教団において「お父様」は、「メシア」とされた。

「お父様」の教えに従えば、きっと救われる。先祖を供養すれば、自分も家族もいまの不幸から抜け出せる。だから、いわれるままに高額の壺や印鑑を買うところからはじまって、いまは供養や儀式の対価に高額の寄付をする。

 その一方で、信仰をやめたら、地獄に堕ちると教え込まれる。家族がもっと不幸になる。そんな恐怖には堪えられない。だから、もっと教団に寄り添い、近づこうとする。そこにできあがる「支配」する側とされる側の構造。