クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」での新型コロナウイルス発生からおよそ2年。現在はオミクロン株の感染が広がり、すでに「第6波」から「第7波が来るのか」という段階に突入している。第6波の死亡者数は、すでにこれまでを凌駕し、検査しないで判断する見なし陽性や自宅療養、高齢者施設での施設療養が常態化した。
なぜ日本ではPCR検査の拡充や大規模収容施設の設置があれほど遅れたのか。また、当時の官邸や厚生労働省、感染症の専門家たちは何を考え、どのように判断してきたのか──。『秘闘 私の「コロナ戦争」全記録』を上梓した岡田晴恵・白鷗大学教授と、菅政権で厚生労働大臣を担当した田村憲久・衆議院議員と振り返る。(聞き手:長野光、シード・プランニング研究員)
※記事の最後にお二人の動画対談が掲載されていますので、是非ご覧下さい。
──この2年間を振り返ると、東京オリンピックの開催を筆頭に、様々なことがありました。日々世界情勢や感染状況が変わっていく中、最前線で対応する厚生労働省内部でも多くの混乱や葛藤があったことと思います。当時の厚生労働大臣として、田村議員はどのような日々を送っていたのでしょうか。
田村憲久議員(以下、田村):コロナの怖いところは、想定されていた「最悪」がさらに上書きされて、より悪い方へと書き換わっていくところにあります。在任中は、まさにコロナの脅威を実感する1年でした。
当時は厚生労働省の専門家組織「アドバイザリーボード」と週1回以上会議を開き、専門家の見地からアドバイスをもらい、状況分析や対応を考えていました。もちろん、厚生労働省局長や次官とも議論しましたし、官邸とも密に連絡を取り合い協議していました。当時、コロナ担当大臣だった西村康稔先生とは毎日のように連絡を取っていたと思います。
国会がある中でのコロナ対応やその他の仕事もとても忙しく、また緊張の続く毎日でした。感染者や死亡者が増えるたび、居ても立ってもいられない気持ちになり、肉体的というより精神的なプレッシャーを強く感じていました。何とかして感染者を抑えたい、お亡くなりになる方を一人でも減らしたいと強く感じていたので、自分がつらいと感じている暇はありませんでした。
──当時の厚生労働大臣として、特に悩んでいたことはありましたか。
田村:厚生労働大臣として、感染拡大を防ぐためにどのような形で行動制限をお願いしていくのか、また一方で経済悪化の影響からどのように国民の生活を守るのかという2つのバランスに非常に苦悩しました。
本来、我々行政というのは国民の皆様に行動制限をお願いしてはなりません。憲法で人権が守られているから当然です。でも、結果として感染拡大を抑えるために、より一層の厳しい自粛や行動制限をお願いする形になってしまいました。国民の皆様には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
──感染の波が来ることがわかっていたにもかかわらず、感染者数が減っている時期に十分な準備ができなかった、その理由は何だったのでしょうか。同じことを繰り返さないためにも特に注視して改善すべき点というのはあるのでしょうか。