目の不自由な女性の自立を支えたイタコシステム

江刺家:昭和30年代半ばから晴眼のイタコも出てきましたが、それまではイタコといえば盲目の女性の仕事でした。

 日本が貧しかった時代、とりわけ東北地方は食糧事情や衛生事情が悪く、はしかにかかって目が見えなくなる女性がどうしても出ました。その時に、目の見えない女性がどのように自立していくかということは地域の深刻な課題でした。

 その中で、男性は鍼灸や按摩、三味線弾き、女性の場合は神事に関わるイタコが目の不自由な子供の仕事として広がっていった。その意味において、イタコは集落における一つの弱者救済のシステムだったと見ています。

──イタコと言えば「恐山」というイメージを持っています。

江刺家:みなさん「イタコ=恐山」という認識ですが、普段、イタコは恐山にはいません。イタコが恐山にいるのは夏の大祭と秋詣りの時だけで、普段は自宅で口寄せをしています。イタコが恐山に通うようになったのは、夏の大祭と秋詣りの時に、大勢の参拝者が来るから。いわば、営業です。

 その恐山が全国区になったのは、劇作家の寺山修司の影響が大きいと思います。

 特に、映画『田園に死す』(監督・脚本:寺山修司、1974年公開)にイタコが登場したことで、イタコの存在が、全国の、それも若い人々に知られるようになりました。また、旧国鉄が展開した「いい日旅立ち」キャンペーンで取り上げられたことも、恐山の存在が全国区になった要因です。

 実は、青森には恐山のような死者の集まる山は何カ所もありました。津軽地方であれば、五所川原市金木の川倉賽の河原地蔵尊や岩木山の赤倉神社、青森県南部太平洋側であれば、階上町の寺下観音や隣接する八戸市島守の虚空蔵菩薩堂、おいらせ町の法運寺などの「イタコマチ」です。ただ、現在では恐山と川倉賽の河原地蔵尊以外のイタコマチは消滅してしまいました。

恐山に匹敵する霊場、川倉賽の河原地蔵尊。2000体を超えるお地蔵様が祀られている