(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
2月4日に開幕した北京冬季オリンピックは、日程の半分を終えた。政治とスポーツは別物とはいうが、中国の覇権主義や民族迫害、ロシアのウクライナ侵攻など差し迫る国際的政治問題が渦巻く一方で、オリンピック競技は盛り上がっている。日本人選手の活躍も目立つ。
日本と中国の時差は1時間。決勝種目が夕方から夜にかけて多いことや、大会期間中に日本の三連休が入ったこともあって、ライブ中継でのテレビ観戦を楽しむ機会にも恵まれ、日本人選手の活躍を楽しみ、歓喜しているのは私も例外ではない。
だが、そこに水を差すのが、実況や解説者の表現であり、結果を伝える報道の有り様だ。これは半年前の東京オリンピックもそうだったが、そこから発せられる言葉が、あまりにも的外れで、陳腐で、本質を見失った見かけ倒しのスポーツ報道になっていることにがっかりさせられているのは、私だけではないはずだ。今回は特に気になる3つのワードについて触れてみたい。
なぜ報じる側が勝手に「悲願」にしてしまうのか
まずは、金メダルを獲得すれば、やたらと「悲願」という言葉を連呼することだ。
日本の祝日にあたる11日、スノーボード男子ハーフパイプで平野歩夢選手が金メダルを獲得した。これに日本のほとんどのメディアが「悲願の金メダル」という表現を使った。実況でも連呼していたし、スポーツ紙などはほぼ横並びで「悲願」の文字が踊った。
しかし、「悲願」というからには、文字通り悲壮感が漂い、その妨げとなった「悲劇」があるはずだ。金メダルを獲得するまでの平野選手に悲壮感はあっただろうか。