(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)
歴史の授業で誰もが習う鎌倉時代の大きな事件と言えば、鎌倉幕府が京都の朝廷に対しその主導権を確立させた「承久の乱」(1221年)、中国の元朝による日本侵略に対する防衛戦争の「元寇」(1274年、1281年)の2つがまず挙がってくるでしょう。
逆に言うと鎌倉時代においてはこの2つの事件ばかりが目立ち、その他の出来事についてはあまり語られることがありません。同時代の史料がやや少ないなどといった理由もありますが、鎌倉時代好きの筆者としては残念な限りです。
ただ、鎌倉時代が事件の少なかった時代というわけではなく、探せばいろいろと面白い出来事が出てきます。そこで今回は、筆者の中では上記の2つの事件に全く引けを取らないと感じられる、上皇が女官たちから滅多打ちの刑を受けた「粥杖(かゆづえ)事件」を紹介したいと思います。
南北朝のきっかけを生んだ上皇
この「粥杖事件」の顛末は『とはずがたり』という随筆に書き残されています。『とはずがたり』の作者は、後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう、以下「二条」)と呼ばれた人物です。当時の宮中で、後深草天皇(1243~1304年)に仕えた女官兼愛人でした。現代風に言えば、社長付きの秘書であり愛人、というポジションが近いかもしれません。