1月13日、東京・新宿の大型の街頭ビジョンには新型コロナ感染に関する注意が掲示されていた(写真:ZUMA Press/アフロ)

(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)

 今世紀になって地球上に発生したコロナウイルスで、2003年に猛威を振るったSARS(重症急性呼吸器症候群)に対して、WHO(世界保健機関)が「終息宣言」を出した同年7月5日、私は香港にいた。

 SARSの感染拡大が著しかった台湾、中国、香港と感染ルートをたどりながら取材をしていて、現地で「終息宣言」に出くわした。その直前の香港の市中を歩いても、地元の人々はマスクこそしていたが、SARSウイルスがどこに潜んでいるのか、ほんとうに存在するのか、疑わしいほどに警戒感なく生活していた。昨年の11月に新型コロナウイルス(COVID-19)の新規感染者数が1桁にまで落ちたときの東京は、あの当時の香港と同じように見えた。

 SARSは、事情は不明だが、いつの間にかウイルスが市中から消えてしまった。

 だから「終息」の宣言だった。日本の国立感染症研究所でも「終息宣言」と訳して公表している。

「終息」と「収束」

 ところが、ここ2年も続くいわゆるコロナ禍については、日本政府が目指すところとして同じ発音でも「収束」という言葉を使っている。菅義偉前首相が緊急事態宣言の発出などの記者会見の度に、そう発言した言葉を首相官邸のホームページで確認すると「収束」と表記があった。

 ウイルスが消えてなくなるのが「終息」ならば、「収束」とはどういうことを指すのか。

 私が話を聞いた専門家の政府関係者によると、ある程度、重症化も抑えられ、医療体制が逼迫することもなく、病院へいけば診療科があって、一般の人が普通に受診できて治療が施されるようになった状態のことをいうそうだ。「With コロナ」であったとしても、いわば既存の病気と同じようになればいい。