(2)秘密戦の手段

 秘密戦は、①謀略、②諜報、③宣伝の3つの手段により実施される。

①謀略とは、相手国の国家機能を阻害し、国力の減退を計り、国際的地位の低下を求め、もしくは国防力の直接的破壊・低下を求めるものである。

②諜報とは、その行為の目的を秘匿して行う情報収集活動である。諜報には合法的なものと非合法的なものがある。

③宣伝とは、口頭、文書、その他の手段を以って、相手側の感情と理性とを自己の希望の如く整調(理解と共鳴を求めること)する行為である。

 また、今日の諜報、謀略(破壊工作)、宣伝の多くがコンピューターネットを利用して行われるようになっている。

(3)秘密戦の実例(筆者作成)

 以下、一つの諜報・謀略が戦争の帰趨を決したとも言われるゾルゲ諜報と明石謀略を簡単に紹介する。

ア.ゾルゲ諜報

 第2次世界大戦の欧州戦場で、ドイツ軍と死闘を続けているソ連軍の運命は、日本の方向(「北進」か「南進」)にかかっていた。

 日本が北を向いている限り、ソ連はその極東軍を欧州戦場に転用できないからである。

 独ソ戦勃発の翌日の1941年6月23日、ゾルゲに対し、「ドイツの対ソビエト戦争に関して、日本政府の立場についての情報を報告せよ」との緊急指令が発せられた。

 ゾルゲは、緊急指令を受けてから 3か月の諜報活動の結果、同年9月14日、「日本の対ソ攻撃は問題外」という電報を送った。

 ソ連は、極東に配備していたソ連軍20個師団を 9月中に極東からモスクワ移動した。

 この極東軍の対ドイツ線への移動は、ソビエト軍に独ソ戦での勝利をもたらす大きな要因になったといわれている。日本の防諜組織がゾルゲを逮捕したのは電報発信4日後の18日であった。

 では、ゾルゲはどのようにして国家最高機密に関する情報を入手していたのであろうか。

 ゾルゲは、在日ドイツ大使とゾルゲ諜報グループの成員であった尾崎秀美両名から御前会議の決議事項に関する情報を得ていた。

 特に、上記電報の判断の基となる情報を、尾崎は近衛文麿首相の側近の西園寺公一から聞き出した。

 諜報活動とは「機密」と標記された秘密文書を金庫の中から盗み出すことだけではない。多くの機密情報は会話の中から漏れるのである。

イ.明石謀略

 ソ連は、ナポレオン軍に侵略されても、ヒトラー軍の侵攻を受けても負けなかった。

 それが日露戦争ではたいして侵略もされていないのに、日本に負けた。

 ロシアが手を上げた直接の原因は、国内に革命が起き、政府が転覆しそうになったことである。

 日ロ開戦必至とみられた明治34年(1901)、明石元二郎中佐(36年大佐)は田村怡与造参謀次長の密命を受けてヨーロッパに渡った。

 明治35年(1902)ロシア公使館武官となり、ロシア国の体質研究にもとづく構想により、ロシア共産党に働きかけて、武器、弾薬、資金を供給するとともに、農民労働者の暴動、水兵の反乱、在郷軍人の招集拒否運動、満州への軍隊輸送妨害工作などを扇動し、ついに無政府状況に陥らせ、ロマノフ政権に戦争継続意欲を放棄させたのである。

 この明石工作に感嘆したのは、当時のドイツ皇帝のウイルヘルム2世で、「明石一人で、大山満州軍20万に匹敵する戦火を上げた」と言い、10年後に起きた第1次大戦ではこの手を真似て、ついに帝政ロシアを崩壊させている。

 明石工作は、理想的に行われて成功した謀略のモデルケースである。

 そして思想的に大衆を動員し、組織的であった点に特徴があり、そのまま現代に通用する。(出典:『統帥綱領』建帛社)