世界遺産にもなった群馬県の富岡製糸場もそうです。蚕の繭から生糸を生産する工場です。富岡製糸場は、1872年(明治5年)に官営の模範工場の一つとして操業を開始しました。富岡ではもともと養蚕業が盛んで、その好立地を活かして、製糸業が発展していきました。生産された生糸は、見事に当時の日本を支える主要貿易品目となりました。

富岡製糸場の内部(English: Imperial Household Ministry[present-day "Imperial Household Agency"]日本語: 宮内省[現・宮内庁], Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

“東洋のマンチェスター”大阪

 さらに、生糸についで日本の重要な輸出品となったのは綿糸や綿製品でした。

 綿糸の生産については、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた大阪が重要な土地になりました。明治時代には日本各地に紡績会社が誕生しますが、工業の規模は2000紡錘程度と小規模で、設備も時流に合ったものでないため、経営的には苦しいものでした。その弱点を熟知していた渋沢栄一は、大阪で独自に紡績会社設立を目指していた松本重太郎や藤田伝三郎といった起業家と共同して、1882年(明治15年)に、大阪に最新の精紡機1万500錘を備えた「大阪紡績会社」(現・東洋紡)を設立します。技術面では工場経営者に、旧津和野藩士でイギリスに経済学と機械工学を学び、さらに現地の紡績工場で働いた経験を持つ山辺丈夫を迎えました。

 大阪紡績は当時、日本の産業近代化の象徴のような存在でした。そして大阪紡績の隆盛を見て、これをロールモデルにするように、大阪には数々の紡績会社が誕生し、活況を呈しました。天満紡績、浪華紡績、摂津紡績、金巾製織、岸和田紡績、日本紡績、福島紡績などなど。これらの多くは、後に合併などにより現在の東洋紡やユニチカの源流となっています。

 大阪はもともと商都として存在感を示していましたが、そこにこうした綿工業の発展が加わり、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるような工業都市の側面も持つようになっていったのです。そして生糸と同じように、需要な輸出品目となって日本経済を支えたのでした。

 こうして日本は、明治政府が思い描いていたように、綿業を起点にした産業革命に成功します。

 ただしこの成功は、欧米先進国では産業発展がかなり先行して、すでに綿業が経済の主流ではなくなっていたからこそのもの、と見ることもできるのです。欧米の経済構造は、すでに先の段階に進んでいたのです。