明治政府の方針は間違ってはいなかったが・・・
またイギリスは、海底ケーブルを敷設し世界の電信の大半を握っていました。電信により、世界の多くの商業情報はイギリス製の電信を伝って流れました。これによりイギリスは世界の情報の中心地となったばかりか、電信を利用した送金システムを構築するなど、さまざまな経済的利益を享受できるようになっていました。すなわちイギリスは各国の経済活動を自国の利益に結び付くシステムを確立していたのです。
だからイギリスは、工業生産では世界第一位ではなくなっても大きく困ることはありませんでした。他国の経済成長が、イギリスの富を増大させる体制をすでに作っていたからです。世界経済が発展することで、巨額の手数料収入がイギリスに流入することになったのです。
日本の産業革命は、まさにその頃に起こっていたものでした。言ってみれば、日本の産業革命とは、すでにイギリスか確立した金融と情報のネットワークの中で発生したものであり、そのシステムに組み入れられることを拒絶することは不可能でした。
イギリスが巨額の手数料収入を入手する「手数料資本主義」で世界を席巻していた時代に、日本は繊維産業による産業革命を成功させました。イギリスなどがすでに主眼を置いていなかったニッチな市場に目をつけた明治政府の戦略は非常に優れたものでした。
一方で当時の日本人は、イギリスが世界金融の中心であることを痛感させられたはずです。しかしその後の日本の経済戦略は、繊維産業での成功の延長線上を歩くように、製造業中心の発想だったのではないでしょうか。その証拠に、国内の主要銀行の存在意義は、重厚長大産業にいかに低利で安定的な資金を供給するかという点にあるという理解が、つい最近まで根強くありました。
日本は長らく、産業としての金融、さらには「手数料」というものの重要性が十分に理解できていなかったように思います。その観点の欠落は、日本人の世界経済理解の大きな問題点として、現在もなお残っていると思われるのです。