するとSPCはdefaultを起こすことになるので、中国開発銀行は、即座に債権の回収に乗り出すであろう。その際、SPCが有する唯一の資産はプロジェクト資産、即ちジャカルタ-バンドン間の高速鉄道施設、であるから、中国開発銀行はこれを先ず差し押さえるであろう。すると、高速鉄道施設の所有権は中国側に移ることとなるが、これは必ずしもインドネシア側にとって悪いことではない。というのは、インドネシアは、この赤字を生むだけの巨大な「ホワイトエレファント」を手放すことができるようになるからである。
高速鉄道が中国の手に渡れば、中国側は、これを遊ばせておこうとはせず、直に事業運営に入ろうとするであろう。その際、鉄道サービスだけでは十分採算がとれないとして、必ずや、周辺地域での土地開発の権利の付与を求めて来ると予想される。
中国側がこの土地開発権を得たとしても、それだけでは十分ではないとみた場合は、更に要求を拡大し、(他国で行ったように)原油や他の地下資源の採掘権も併せ、要求して来る可能性がある。
そこまで、中国側の要求が拡大すれば、インドネシアとしてはこれを頑としてはねのけなければならない。というのは、中国からの借り入れ事案においては一旦債務の罠にはまってしまうと、どんどん深みにはまってしまい、ついには身動きがとれなくなる恐れがあるからである。これは、どこかで食い止める必要があり、このためには、断固とした姿勢で交渉に臨む必要がある。
ただ、中国側も、インドネシアはスリランカやタジキスタンのような小国とは異なることは十分承知しているので、両国間の関係を悪化させてまで強引な要求を持ち出すことは避けようとするかもしれず、その場合は、インドネシア側も、中国側と対等に交渉できよう。
おわりに
以上、本プロジェクトについてその経緯をレヴューし、その隠された構造を明らかにしてきたが、ここで冒頭で取り上げた2つの問いに戻りたい。
第一の問い〈プロジェクトの遅れやコストオーバーランは事業者の非か〉に関しては、事業者側の非というよりは、むしろそれは戦略だったといった方が適切であろう。
中国側が設定した工事の完成時期は、技術者の積み上げに拠って弾き出したものではなく、ジョコ大統領の再選時期に合わせて、政治的に設定されたものであり、初めから無理と分かっていたと言えよう。プロジェクトコストも、日本との競争に勝つために、JICAのそれよりは低めに出したというだけのことである。一旦これで受注を獲得すれば、工事の執行段階で、何かと理由をつけて、これを変えることはできるとみていたのであろう。
BOT契約においては最初に出したコミットメントはこれを守らなければならないが、請負契約の場合は、正当な事由があればこれを変更できるので、契約の運用形態も、(当初これに基づくとされていた)BOTから、徐々に請負契約的なものに替えられていったように見える。中国側はこれを意識的にやったとは言わないが、少なくともインドネシア側は、この微妙な契約の変質に気が付かなかったと言える。
第二の問い〈インドネシアは十分なプロジェクト実施能力を有していたのかどうか〉に関しては、プロジェクトの実施能力が欠けていたとまでは言わないが、事業者に最初にコミットした約束を守らせることができなかったという点で事業監督能力が不足していたと言えよう。
というのは、事業を的確に監督するためには資機材の価格を始めとするコスト関係情報を十分に把握している必要があるが、高速鉄道に関する情報は、中国側に独占的に保有されており、インドネシア側はこのような情報を持たないので、サプライヤーの言い値をそのまま受け入れるしかなく、プロジェクトコストは徐々に膨らんでいった。
要するに、このプロジェクトは、発注段階までは、インドネシアのペースで運んだが、一旦、実施段階に入ると中国ペースで進み、建築工事はいつの間にかBOTというよりは、むしろ請負契約に近い形で運用されてしまった。最後には、当初払わなくてもいいとされていた財政資金をインドネシア政府がつぎ込むこまざるを得なくなった。一方、中国側は、当初は儲からないとみられてきたプロジェクトから、その資機材等の納入を通じ、着実に利益を上げていった。
このように契約が中国ペースで運用されてしまったことの背景には、インドネシア側が(中国版)高速鉄道に関する詳細情報を持っていなかったことに由来するが、この‟情報の非対称性“の影響がより顕著な形で現れるのは、プロジェクトが運営段階に入ってからである。この段階で何か問題が起きたとしても、高速鉄道の経営に関する十分な情報を持たないインドネシア側は中国側と有効に議論できず、結局は相手方の言いなりになるしかない。このような状況下では、プロジェクトは長く持てば持つほど、不利になり、相手側に取り込まれてしまう恐れがあるので、このプロジェクトについては、先に述べたように、早めに撤退し、SPCを解散した方がより賢明な選択といえよう。
ただ、この最後の手段を取るに当たって、一点チェックしなければならないことがある。それは中国側と結んだ契約書である。中国側が途上国と結ぶ契約は、通常、対外秘とされ*6、国際慣習に添わない不利益条項が多々含まれている。特に、注意を要するのは、キャンセル条項である。これまで、中国とのプロジェクトを途中で破棄したいとする途上国は幾つかあったが、その際降りかかってくるペナルティーの額があまりにも大きいので、マレーシアの例に見られるように、これを諦めた国が多い。途上国が中国と契約を締結するときは、その内容に格段の注意を払う必要があるが、今回インドネシアが中国と結んだ契約はそのような不利益条項を含んでいなかったことを希望する。
*6 この点については、世銀を始めとする国際機関が、透明性に欠けるとして、問題にしている