筆者はキリスト教徒ではありませんが、聖書の中で語られるシーンに深く感銘を受けたことがあります。
《ヨハネによる福音書 8章
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。》
いま世の中では東京五輪の音楽を担当した(するはずだった)アーティスト、小山田圭吾氏へのバッシングが燃え盛っています。若い頃に身障者に対してイジメをしていたという、十数年前の音楽雑誌のインタビュー記事で語っていた内容が掘り返され、メディアもネットも総出で彼を叩いています。
その昔の記事を読んでみましたが、確かにひどいイジメをしたことをほとんど反省もなく語っている様子がうかがえます。イジメていたことが事実なのかどうかを確かめるすべはありませんが、少なくともそんなことを当たり前のように面白おかしく語ること自体、人間としてどうよ? という気持ちにはなります。
イジメの事実があったのか、あるいはそれがインタビューの際の出まかせだったのかはさておき、掘り返されたその記事に関して小山田氏を叩くメディアと、おそらくは原文も読んでおらずバッシング記事の印象だけで彼を叩く言葉の数々を眺めていて、ふと思い出したのが上述の聖書のシーンでした。