・「防災対策まで自己責任論に傾く日本人の言行不一致」
・「津波想定3倍増が浮き彫りにする東日本大震災の教訓」
日本には、誰もが正しい情報を手にする公共空間がない。「正しい情報」とは、発信者の認識によって異なるが、保守であれ、リベラルであれ、また異なる立場であれ、道理として正しいものを指す。
例えば、「日本は防衛力を強化すべき」と与党の政治家が言った場合のメディアの反応を考えてみよう。「平和憲法の下でナンセンスな発言」という報道と、「尖閣問題の深刻化を考えた発言」という報道は正反対の評価だが、それぞれの立場を理解すればいずれも正しいかもしれず、あとはその記事の中身が筋の通っているものであれば「正しい情報」が伝達されていると考えることができる。
残念なのは、「防衛力強化の前にすることは何か」「ここでの防衛力とは何を指すのか」という類の結論に至る前の議論がなされていないことだ。二つの例で言えば、「何を根拠に平和憲法と言うのか」「尖閣問題の深刻化とは法的・政治的には何を指すのか」という議論である。
仮に、欧米メディアと日本のメディアの違いを挙げるとすれば、この点がその一つであることに間違いない。与党の政治家も、これを報道したメディアも、整理された(≒理屈を詰めて考えて事実確認もした)知識で物を言っていないのである。
10年前に東日本大震災に対応した民主党の菅(かん)政権でも同じ問題が見られたが、現在の自民党の菅(すが)政権も過去の教訓を生かさずにコロナ対応を進めている。今回は、その問題を修正する方法について考えてみたい。
東日本大震災の際、菅元首相と枝野元官房長官は作業服を着て記者会見に望んでいた。後付けの議論になるが、二人を中心に日本政府が発表する内容は、ネットで発信される学者などの内容とは異なることもあり、政府に対する信頼問題につながった。
当時の民主党政権は、国民に過度な不安を与えないため、専門家から聞いた情報を選別して発信していたようだが、それが合理的な選択結果になっていなかったということだろう。
ただ、この時は国民に「あり得ない」または「起きてはいけない」のはずの出来事が起きたという感覚があり、そのあたりを割り引いた評価をしていたように思う。「枝野寝ろ」という言葉は、まさに国民の気持ちを代表していた。
それに対して、現在のコロナ対策を見ると、政府の情報発信は国民に理解されているとは言いがたい。