最強と呼ばれるだけあって上杉謙信の「強さ」は多く語られる。ときに義の男、ときに略奪者。しかし、事実を見ると「統治」についても一日の長があることがわかる。
そんな一面を書いたのが歴史家・乃至政彦氏の新著『謙信越山』だ。
上杉謙信という稀代の戦国大名を主人公に、彼が15年にわたって繰り返した関東遠征=越山の理由を掘り下げた力作だが、謙信の「経済政策」への言及は新しい「歴史の見方」を与えてくれる。著者・乃至政彦氏に聞く「歴史で磨く思考術」。(全3回)
第一回はこちら「織田信長と上杉謙信、武田信玄が英雄化した納得の理由」
第二回はこちら「『石田三成は悪者』説、大河で変わる戦国武将の実像」
商売センスがあった謙信の「政策」
――戦国武将というと「戦う人」「武士」のイメージが強いわけですが、統治する人、国をまわす人としての能力も必要です。『謙信越山』を読むと、特にその点で上杉謙信は一日の長があったことがうかがえます。
『石高がなくても景虎の資財は潤沢だった。では、その財源はどこにあったのだろうか。
まず直江津や柏崎などの港湾都市、ついで国内の金山や銀山を直轄していた。しかも特産品として、青苧という繊維の素材があった。永禄2年(1559)、景虎は自ら京都へ出向いて、これを朝廷や幕府の要人たちに献上した。すると、上流階級にあるかれらは嬉々として、越後布から作られた衣類でわが身を飾った。これが景虎の狙いだったのだろう。パリコレやハーパーズバザーなどの広告媒体がない時代、トップクラスの貴人たちが自発的にモデルとなれば、その宣伝効果は抜群である。
貴人たちが着用する豪奢な衣装は、地方からの来客の目を驚かせたことだろう。こうして越後の特産品は、京都から販路を広げていく。『謙信越山』第10節 長尾景虎の上洛より』
乃至 謙信の商売センスというのは本当にそうですね。ひとつ、ふたつの資料で答えが見つかるわけではないんですけれども、彼の時代になって越後はすごく豊かになっているわけです。
謙信のお父さんの長尾為景は港町や橋を作るなど、整備はしているんですけれども、なんせ戦(いくさ)が多いですから簡単にはいかない。特に特産品になりうる――つまり外貨を獲得できる可能性のある――「越後の布」の材料になる青苧(あおそ)を外に売った形跡がない。例えば、京都から「納入してくれ」と言われているのにできていない。
それが謙信の時代になって急に豊かになるです。為景の時代に比べると相当な黒字になっている。詳しくは本に譲りますが、当時の越後経済にとって青苧の輸出はとても大きな意義がありました。
それを表すように――これは織田信長や豊臣秀吉よりも先駆的なやり方で興味深いのですが――、謙信は領土内のさびれた港町の再興し、人を集めようと考えたとき、町の税金をすべてなしにした。四公六民(年貢の税率)とかじゃない、ゼロです。ただし、青苧にだけは税金をかけます。
それだけ青苧というのは大きな財源だったわけです。
結局、謙信がこのとき考えたのは、「地産地消」じゃなく地産したものを外に売って、外にいる人も喜ぶ、自分の国も喜ぶ「win-win」の形だった。
戦争ばかりの時代だとこういう商売の仕方はあまりしません。(領土を広げて、年貢を高くするなど)「荒稼ぎをしよう」という発想の方が思いつきやすい。
謙信は平和を前提とした商業戦略を立て、これを見事にやってのけている。税金のかけ方一つを見ても「選択と集中」ができています。そこの商売に関する目の付け所というのはどうしてこんなに鋭いのかと不思議になるくらいです。