男色説、好みは美少年の真偽
謙信が男色好きだったとするイメージは、意外にも最近になって作られたものである。江戸時代の文献を見ると、むしろ逆のことが書いてある。他国の策士が独身の謙信のもとへ、美少年の暗殺者を送り込んだが、謙信はこれに興味を示さず、すぐに帰国させたという逸話があるのだ(『謙信家記』)。つまり豊臣秀吉同様、男色には関心がなかったという設定で見られていたのだ。
ただ、一つだけ例外となる同時代の史料がある。関白・近衛前久が、僧侶の知恩寺岌州に書き送った書状に、興味深いことが書かれてあるのだ。
「少弼[謙信]は、若もし[若衆=美少年]数奇の由、承り及び候(謙信は若衆が好きらしいと聞き及びました)」
これは関白と公方(将軍・足利義輝)が酒宴を楽しんだ翌日の手紙である。2人は華奢な若衆を大勢集めて大酒を楽しむのが好きだった。
先学はこの手紙を、2人が謙信と一緒に酒宴を楽しんだことを語る内容と解釈してきた。だとすれば、関白は謙信と同席して本人から直接聞いた話であるはずだから、確実視できるのであり、歴史学界は長らく謙信を男色愛好家として研究していた。これで謙信の美少年好きは間違いないと思われていた。
ところが、昨年、山田邦明氏が著書『上杉謙信』(吉川弘文館、2020年)で、この史料について異論を述べ、その通説が不正確であることを指摘した。
実は謙信は、公方と関白の酒宴に参席していないのだ。どういうことか。この手紙の通説に関わる部分をここに意訳して紹介しよう。
「今日、謙信が公方のもとへ出勤するので、父とわたしも参るように公方から聞かされましたが、わたしはこちらを訪れた公方と夕方から朝まで大酒を飲み、二日酔いになってしまったので、謙信に会うことができませんでした。父は公方を交えて会いました。
この前も何度か公方はこちらを訪れ、華奢な“若衆”をたくさん集めて大酒を楽しみ、(その時に)謙信は若衆が好きだと聞きました」
これを見る限り、公方と関白の「大酒」に謙信は同席していない。ただ、公方が関白に“謙信は若衆が好きらしいぞ”と述べたのを記したに過ぎないのである。その公方も謙信とはまだ個人面談した経験がなかった。
つまり、謙信が「若もし数奇」というのは、22歳の公方と24歳の関白が想像した永禄コソコソ噂話に過ぎないのだ。
謙信が30歳になっても女性を遠ざけている理由を不思議に思い、このようにゴシップを楽しんだ。いつの時代にも見られるごく普通の光景である。