前回稿「世界の科学を変えた日本の物理学者たち~分野を超えた『現代実験物理の父』霜田光一(1)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63587」は、サイエンスやテクノロジーに良心的な読者に届くように、入念の校正を経てアップロードしました。
果たして、国内でも心ある方に読んでいただけ、米国のシカゴからも細かなご指導をいただき、出稿して良かったと思っています。
ただ、ページ・ビューは伸びないだろうと思っていました。
ところが予想に反してその日のベスト5に入るなど、2021年の今日、101歳を迎えられる霜田先生のご活躍に、多くの方が関心を持ってくださったことに感謝しています。
さて、その前回稿ですが、実はイントロだけで原稿が長大になってしまい、本編はこれからという運びになっていました。
「物理学者」霜田光一の、世界へのオリジナルな貢献、改めて振り返ってみたいと思います。
「レーザー発振の父たち」
前回稿にも引用したシカゴ大学フェルミ研究所、岡武史先生からもご指摘のあった点の再確認からスタートしましょう。
「1953~54年にかけての霜田先生のお仕事がなければ、そもそもタウンズ研はメーザーの発振に成功することがなかったでしょう」は全く事実に反します。
霜田先生がメーザーの実験を始められたのは1954年9月にコロンビア大学のタウンズ研究室に行かれてからですが、この時タウンズ研ではすでにメーザー発振に成功しており論文「Gordon, Zeiger, Townes, Phys. Rev. 95, 282L」(1954)は出版されていました。
このように岡先生が明言されるのは、これに続く時期、岡先生ご自身が大学院生として霜田研究室で研究しておられたからにほかなりません。
前回同様、霜田先生白寿のお祝いに岡先生が寄せられたご講演から引き続き引用してみます。
「僕が霜田研で働き始めて間もなくタウンズ先生が霜田先生の研究室にサバティカルで半年滞在されました。当時タウンズ先生は40歳、大変気さくな方で、霜田研のグループ討論にも活発に加わり、これは僕にとってものすごい刺激でした」
チャールズ・ハード・タウンズ博士(1915-2015)は米国東南部、サウスカロライナ州に弁護士のお父さんのもとで生まれ、地元のファーマン大学を19歳で卒業。
学生時代は学生新聞記者や大学博物館のキュレーターなども務め、興味の広いジェネラリストでもあったようです。
大学2年で生まれて初めて物理学に出会い、感銘を受けます。
卒業の翌1936年、北隣のノースカロライナ州にある名門デューク大学大学院で物理学の修士号を得ます。
余談ながら2007年、私はNHK番組の取材でノースカロライナ州のフォート・ブラッグ米軍基地に体験入隊したことがあり、その折にもデューク大学に立ち寄りました。
第2次世界大戦を終結させたノルマンディ上陸作戦、落下傘部隊の城下町で、傭兵部隊的な独自の気風を持つ土地柄であったのが印象的でした。
あえて言うなら「世界の平和はここで守る」とでもいうような気宇壮大。
ただしノルマンディ上陸作戦は1944年、タウンズ先生がデュークで学んだのは1936年ですから、よほど先のことになります。