戦後、一面の焼け野原になってしまった日本で、この祖父の息子たちが三井銀行や不動産で尽力してお金を集め「桐朋学園女子短期大学」に音楽専修課程を作り、斎藤秀雄氏の指導のもと、世界に冠たるアンサンブルを短期間で作りました。

 米国の楽旅で成功を収めたこと、小澤征爾、飯守泰次郎、潮田益子、堤剛といったOBOGを世界に送り出していった背景には、こんな裏話があります。

 小澤征爾さんがパリでスクーターに乗っている写真が、なぜかアサヒグラフに載ったりして、戦後打ちひしがれている日本国民に希望を与えたりしました。

 外貨持ち出しが制限されていたあの時代、どうしてそんなことが可能で、また誰が仕込んであんな写真を一若者の洋行で撮影、メディアに載せたかというと、母のすぐ上の兄が三井不動産で財務して、そういうことがあった。

 その種の裏話を1970年代以降はリアルタイムで聴きながら育ったことで、私自身も現在に至っているわけですが・・・話がわき道にそれました。

「選択と集中」ということが、特に1990年代以降、冷戦が崩壊してからと思いますが、学術に限らず様々な公共事業や政策で言われるようになったと思います。

 タウンズ教授が19歳で生まれて初めて物理を知り、それに熱中し、翌年大学を卒業すると名門デューク大で物理を専攻、1年で修士・・・というとき、日本人は何か、受験秀才的なものと勘違いする傾向があります。

 しかし、まず間違いなくタウンズ先生のデューク進学は、学部の成績と面接で、勢いのある若者を採用して「優れた環境」で放し飼いにする状況にしたのだと思われます。

 放し飼いといっても、あれこれ手取り足取りはしないというだけで、毎週のリポートなど米国の大学は課題が多いことが普通です。

 それを「言われた課題についていく」のではなく「自分の知的好奇心に基づくライフワークのペースのなかに組み込んで」完全に自分のモノにして、たった1年でデュークの修士修了。

 さらに整った環境を求め、はるばる西部に1人で飛び、3年かけてカルテックで博士号を取得・・・この時点ですでに「タウンズ流」というべき「彼自身の物理」を確立していたことが察せられる。

 こうした「その人の流儀」を持った専門人を育てるのが、人材を選択、集中して優れた環境で「放し飼い」にし、アウトプットを求める教育の基本方針であるといえるでしょう。

 また、同じことを人の向き不向きを選ばず、義務教育に投入して失敗したのが「ゆとり教育」であることは、その動機を教えてくれた有馬朗人さんの述懐も含め、昨年末の連載にも記した通りです。