歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
「武士達は皆、恨みに思っております」
源義経の生涯は「判官贔屓」(弱い立場に置かれている者に同情を寄せること)という言葉もあるように、悲劇性を持って語られてきました。平家討伐に大きく貢献しながらも、異母兄の源頼朝に疎まれ、諸国を流浪し、最後には奥州平泉で自刃していく。その落差が、より一層、後世の人々に同情を呼んだのです。いや、後世の人々だけではありません。同時代人も、義経の死を悲しみました。
文治5年(1189)閏4月30日、奥州の藤原泰衡は、それまで匿っていた義経を突如、急襲します。鎌倉の頼朝は、義経を追討せよということを、朝廷を通して、藤原泰衡に圧力をかけてきました。泰衡の父・藤原秀衡は、義経を「大将軍」として、頼朝にあたるべしとの遺言を子供たちに残して、この世を去りましたが、泰衡は頼朝の圧力に耐えきれず、ついに、衣川館の義経を襲ったのです(頼朝の要求に背けば、朝敵として、泰衡が征伐される恐れがあったからです)。
泰衡は、数百の軍勢でもって、義経方と合戦します。義経とその家人は、懸命にこれと戦いますが、多勢に無勢、悉く敗北していきます。義経は、持仏堂にて、先ず、妻(22歳)と子(女子4歳)を刺殺。続いて、自らも自害して果てたのです。31歳の若さでした。
討たれた義経の首は、奥州から鎌倉に届けられました(同年6月13日)。首実検は、幕府侍所の長官・和田義盛と、所司(次官)の梶原景時が腰越で行いました。美酒に浸され、黒漆櫃に入れられた義経の首。その首を見た人々は、皆、涙を流したそうです(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。
首実検の担当者(和田義盛や梶原景時)が泣いたとは書いてはいませんが、彼らも涙を流し、両袖を濡らした人々の中に含まれていても、おかしくはありません。梶原景時と言えば、義経を、頼朝に讒言(事実をまげ、偽って、人を悪く言うこと)したことで、世上に知られています。『吾妻鏡』には、壇ノ浦合戦後に、景時が鎌倉の頼朝に、義経に関する次のような報告を上げていることが記されています(1185年4月21日)。
「判官殿(義経)は、君(頼朝)の御代官として、御家人らを副え遣わされたからこそ、合戦することができたのです。それを判官殿は、自分の手柄のように思っていますが、大勢の武士らの合力があったからこそ、戦に勝てたのだと私は思います。武士達は判官殿に従っておらず、心中では頼朝様を慕っております。だから、心を1つにして、勲功を立てようと励んできたのです。
平家滅亡後、判官殿の態度は、大きなものとなっております。兵士たちは、薄氷を踏むように、怯えています。判官殿に本心から帰服している者はいないでしょう。彼(義経)の振る舞いを見るたびに、頼朝様のお心に違えているのではと感じ、諫言するのですが、その言葉が仇となり、罰を受けそうになります。義経は、自分の意見を優先して、頼朝様のお考えを守りません。自分の意志に任せて、我儘に行動をします。よって、武士達は皆、恨みに思っております。それは、この景時ばかりではありません」と。