安養院。北条政子が夫の源頼朝のために建てた長楽寺が前身だとされる 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

母としての憤り

 北条政子の夫・源頼朝は、建久10年(1199)1月、病死します。政子は42歳にして、後家となったのです。政子は、夫の死の前に、娘を亡くしていました。長女の大姫を建久8年(1197)に、19歳という若さで亡くしているのです。

 大姫は、源(木曽)義仲の嫡男・義高と婚姻していましたが、頼朝と義仲の関係が破局を迎え、義仲が頼朝により滅ぼされると、頼朝は後難を避けるため、義高を殺そうとするのでした(1184年4月)。

 頼朝は後に、異母弟・源義経と静御前の間に生まれた男子も殺害しますが、頼朝は、義高が成長してから、自らに刃向かってくることも恐れたのです。

 義高は、藤内光澄という武士により討たれますが、義高が死んだことを大姫はすぐに知ってしまいます。そして、水も喉を通らぬほど、悲嘆に暮れてしまうのでした。

 その様を母・政子は見て、大いに悲しみます。悲しみだけでなく、義高を殺した武士に怒りが芽生えたようで、藤内光澄は同年6月に斬首されてしまいます。頼朝の命令によって斬首となったのでしょうが、その裏には「御台所(政子)の御憤り」(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)があったようです。

 藤内光澄も頼朝の命令があったから義高を討ったのであって、本来ならば、斬首される謂れはないはず。哀れと言えば哀れです。とは言え、政子としては、夫の頼朝に激情をぶつける訳にはいかず、光澄にやり場の無い怒りが向いたのでしょう。大姫は、体調が回復する時もありましたが、頗る悪化することもあり、とうとう、20歳の頃に病死してしまいます(1197年)。

 そしてその2年後(1199年)には、夫・頼朝の突然の死。更に、同年6月には、次女・三幡を病で失くすのです。若くして、次々と世を去っていく政子の子供達。政子の懸念の種は、頼朝の後継となった嫡男・源頼家(母は政子)にもありました。

 有力御家人(安達景盛)の愛妾を強奪するというあり得ないことをしでかした頼家。更には、恨みを抱く景盛を討伐せんとする頼家。不肖の息子に対し、政子は「粗忽の至り。佞臣を重用している」「それでも未だ景盛を討とうというのなら、私を討ってからにせよ」と啖呵を切るのでした。命懸けで息子・頼家を翻心させようとしたのです。