天文の国府台合戦

 天文6年(1537)5月16日、里見義堯は北条氏綱からの「心替」を決断した。小弓公方の足利義明に臣属して、古河派の敵に回ったのだ。

 これが、氏綱の傀儡政権を否定する宣言になった。ここに義明は機が熟したと判断したものか、下総・上総・安房国の領主たちに大動員令を発した。氏綱から鎌倉を奪還するためである。これを聞いた氏綱は迎撃準備に取り掛かった。

 こうして天文7年(1538)10月の国府台合戦の戦端が開かれていく。

 この合戦を描写する文献として、里見義堯の業績を称える近世の戦国軍記がたくさんあるが、どれもお約束めいた場面描写が売りのフィクションで、史料とはならない。同時代の文献では『快元僧都記』の記録が、軍記では合戦後に北条家臣が書いたと見られ、里見の二文字が一切登場しない『小弓御所様御討死軍物語(おゆみごしょさまおうちじにいくさものがたり)』が有用となる。両書を参考に合戦の全貌を外観しよう。

 10月2日、氏綱は長男の氏康と共に出馬した。4日後の同月6日、武蔵国江戸城を通過して、翌7日に現地到着した。

 この時すでに小弓公方・足利義明は、里見義堯を連れて下総国の国府台(鵠台)に出陣していた。その兵数は2000余騎。対する北条氏綱の兵数は3000余騎だった。

 合戦前、古河の管領・上杉憲政は、義明の作戦目標を関宿城だと唱えて周辺勢力の不安を煽ったが、この人は軍事音痴である。通説の言うように、江戸城を踏み潰し、鎌倉を制圧することこそ義明最善のシナリオだっただろう。義明率いる小弓軍は本隊と先手隊の二隊があり、義明の近習と上総・下総国からなる本隊は国府台(現・里見公園付近か)に、里見義堯が率いたと見られる先手隊は国府台付近の「松戸台」なる山地(現・松戸駅付近か)に布陣した。

 これまで氏綱は義明の宣戦布告に対して、「古河公方と小弓公方のどちらも尊いお方で、自分は筋目に違うことをしたくありません。ご容赦ください」と何度も自重を懇請していた。そのため対峙した時も、遠慮して遠方に布陣した。

 氏綱の動きを弱腰と見た義明は、月毛色の愛馬に跨がると、突撃を命令した。驚いた北条軍は、後退を開始する。 

 だが、義明はここで調子に乗らなかった。「待ち戦」を宣言して、山地から弓射を仕掛けさせたのだ。北条軍も弓射で応戦する。こうして朝から夕方まで矢戦が続けられた。

 この間、氏綱は「筋目から言うと争いたくないが」と悩んでいたが、やがて「逃げてばかりだと滅亡するしかない」と思い直して、反撃を決断した。軍扇を氏康に預けると、自身は旗本を連れて前線に向かう。

 ただし義明の旗本は「岩盤石(がんばんじゃく)」「鉄(くろがね)の築地」と呼ばれるほど堅固で、簡単には破れない。

 そこで氏綱は、別働隊に義明本隊の背後を狙わせた。すると血気に逸る若い兵たちが応戦に出た。鉄の布陣が、にわかに歪みを見せたのである。これが狙いだった。今ぞとばかりに旗本が旗本に殺到する。これで義明の本隊は崩壊し、乱戦が始まった。もともと兵力差で劣るのに先手隊を後方に残したままで、明らかに義明の旗本が不利である。

 踏みとどまる小弓の一族衆が次々と戦死する。馬上で応戦する義明も三浦城代の横井神助に落馬させられ、松田弥次郎に首を獲られた。

 義明の首は、古河公方のもとへ届けられた。氏綱の武功は譜代以上と評価されたらしく、憲政を差し置いて「官領(管領)」に任ずる指示書が下されたという。

無傷で合戦を終えた義堯の決断

 当時の記録を見る限り、前に出過ぎた本隊の崩壊を遠望した義堯は、全くなす術がなく、そのまま無傷で撤退したようだ。近世軍記の義堯は、氏綱相手に獅子奮迅の激闘をやって見せているが、事実ではない。

 帰国した義堯は、下総・上総両国に兵を進ませた。小弓派の領土を押領して、さらなる勢力拡大に励んだのだ。大きな反抗は特になかった。現地の領主も小弓体制が消滅してどうしていいかわからず、義堯からの保護を受けることにしたのである。

 ここに義堯は、房総を拠点に関東屈指の一大勢力を有することとなった。戦国の大雄として独立する身となったのである。

 その後、一介の簒奪者にして侵略者から隠れもない群雄と化した義堯は、「萬民を哀み、諸士に情有て、国をおさめ世を保ち」続けることに専心した。義堯は上杉謙信や織田信長のように神格化されることはなかった。

 義堯が亡くなると、日我は彼を「関東無双の大将」だったと評した(『日我百日記』)。

 かつて義堯は日我に向かい、自責の念に苦しむ気持ちを告白した。その場で諭された後は、自分のことよりも家臣と領民に目を向け、君主としての責任を果たすことに専念した。日我はその生き様を見て「無双」と評したのかも知れない。

 過酷な生において己を知る者が側にいたのなら、義堯は「関東無双」の幸せ者だったと言えるだろう。