日我の安房入国と天文の内訌

犬掛古戦場(千葉県) 撮影/乃至 政彦

 天文2年(1533)7月以前のこと、日蓮宗の僧侶である日我(にちが/1508~86)が、日杲(にっこうの補佐役として妙本寺に入った。日杲は地頭の糟屋石見守に、「まだ28の若輩ですが、日我をよろしくお願いします」と依頼した。日我は日向国で師匠から「必ず出世する」と才気を見込まれ、畿内でも門徒一同が希望の星と見た英俊であった。

 しかし、その前途は暗澹たるものがあった。義豊と義堯の抗争が始まったのである。妙本寺は過去にも義通・実堯兄弟に陣所・要害として使われたことがあり、今回もまた争乱に巻き込まれる可能性が高い。案の定、義豊軍の兵たちが寺を拠点に居座り始めた。新参の日我にすれば「ちょっと待ってくれ」と言いたくなる事態である。

 同月、北条為昌の水軍が、妙本寺の海岸に迫る。彼らは過去に何度も近隣の山林を崩落させ、伽藍を破壊した憎むべき軍勢であった。そこへ義堯軍の正木時茂とその弟・時忠も駆けつけて、寺に籠る義豊軍と激突した。時忠が抗戦する糟屋石見守を討ち取った。義豊の惨敗である。これを見た日我は青ざめたに違いない。ここは想像を絶する修羅の国だった。

 他国の援軍のおかげで勢いづいた義堯は稲村城を攻撃した。義豊は急ぎ城を捨て、真里谷信清のいる上総国へ逃れた。

 翌年(1534)4月、義豊は義堯に押領された安房国を取り戻そうと手勢を率いて南進したが、安房国犬掛の地(南房総市犬掛)で敗れて殺害された。

 勝利者の里見義堯は、この合戦で戦死した「数百人」の首級を、なんと北条氏綱のもとへ送った(『快元僧都記』)。何のことはない。義豊が北条に内通する者たちを殺したのは、こうした事態を回避するための正当防衛だったのだ。だが、首謀者を討ったところで、仇討ちを喧伝する義堯一党の動きは止められなかった。簒奪者の義堯が、北条の傀儡として君臨する未来を想像すると、日我の心中は暗澹たるものがあっただろう。

油断ならない古河一派

 荒廃した安房国に、下総国の兵が姿を現した。古河公方の宿老で簗田城主の簗田晴助が威力偵察にやってきたのだ同じ古河派であっても晴助には領土的野心があって油断できない。正木時茂が肉薄すると、晴助はすぐに撤収した(『諸家系図纂』[三之二・源氏里見系図])。

 その後、晴助と不仲である氏綱が、義堯との関係を取り持ってくれる気配はなかった。ここに義堯は、古河派への不信感を募らせていく。

日我と簒奪者の対面

 それからほどなくして日我のいる妙本寺を、義堯が訪れた。

 天文4年(1535)10月14日のことである。それまで義堯は各地で日蓮宗の法華談義を聴講しており、日我の道場に案内されると、日蓮大聖人の御影像(みえいぞう)を拝顔すると、「妙本寺よりも小湊の誕生寺にある画像が御若年のようですね」と的確な観測を述べ、日我をいたく驚かせた。

 義堯はまだ29の若さであるのに、宗派関係なく仏教全般への造詣が深かったのだ。ここで義堯は日我に質問を重ねていく。どれも真摯な信仰心から生起する疑問であった。時に高度な質問もあった。日我は過去に21年間、さまざまな人と問答したが、ここまで「賢察」な人は初めてだと驚いた。

 しかも義堯は、学識をひけらかしているのではない。むしろ簒奪者として血に塗れていく自身の運命を憂えていたようである。義堯は日蓮宗に関連する問答を繰り返すうち、やがて切羽詰まっていたかのように次々と質問をぶつけ始めた。

 曹洞宗の義堯は、こんな自分でも法華経に帰依すれば、救われないだろうかと苦しんでいた。そこで日我に「他国に計策を廻らせ、あるいは人の所領を取り、あるいは物の命を殺し」ている「悪人」の自分でも成仏できるのかと尋ねた。すると日我は経文を引用しながら「間違いなく成仏できます」と明言した。この言葉がどれほど義堯の心を揺さぶったかは想像に難くない。

 望みもしないパワーゲームに乗せられ、振り回されていた義堯は、野望に満ちた「大俗」ではなく、迷える「大俗」だった。日我は、義堯の問い全てに、一つ一つ返答した。

 穏やかな時間が過ぎ去った。この対面に、義堯はこれから先の道を決める指針を得たようだった。問いを受けた日我自身も孤独な簒奪者との出会いに衝撃を受け、翌日さっそく二人の問答を書き残すことにした(『堯我問答』)。二人の絆は、この日から「四十余年」もの間、一度も壊れることなく結びつきを深くしていくこととなる。