佐野豊綱と昌綱の判断

佐野昌綱像 栃木・大庵寺蔵

 さて、唐沢山の佐野方である。 

 その後、景虎は渡良瀬川を渡渉すると、迫間(はさま)(足利市迫間町)の山地で食事を摂った。そこから岡崎山に進むと、唐沢山城城主の佐野豊綱が、弟の昌綱を出迎えに派遣した。佐野氏は上杉氏家臣である。憲政のため、わざわざ越山した景虎を無視するわけにはいかない。筋を通して歓待することにしたのである。

 昌綱は景虎を唐沢山城まで警護した。城内に引き入れると、猿楽を催すなどして越後勢を3日ほど饗応した。この頃までに成繁らも景虎と和睦したようである。現地将士に並々ならぬ武威を示した景虎は満足して平井城へ戻り、その後、越後国へと帰陣した。

 このためだろう。同年9月11日、北条氏康は、景虎に同調した新田領と佐野領に放火を命じた。景虎とその与党を許さないと意思表示したのだ。

 なお、景虎は関東の占領地を継続的には支援しておらず、すぐ北条軍に取り戻されたようだ。その証左として、翌年末に北条氏康が上野国に禁制を発している。

 米沢藩の『謙信公御年譜』がこのときの作戦行動を一切記録していないのも平井城をあっけなく奪い返されたことを、早く忘れたかったからだろう。不名誉極まりない出来事だったので省略してしまったのである。

北条軍の反撃

 景虎はじめての越山は、一応首尾よく終わりを迎えた。出陣中、景虎は不安でいっぱいだったかもしれないが、哄笑とともに強硬姿勢を貫いた。

 この越山でその個性を発揮したのは景虎だけではない。その場その時の空気をよく見て、的確にダメージコントロールした横瀬成繁。機を見るに敏な佐野豊綱・昌綱兄弟。この騒動で群雄たち個性あふれる群雄の才覚が、それぞれ色鮮やかに輝いたのだ。

 長尾景虎はじめての越山は、上杉憲政を平井城へ戻し、周辺の群雄に睨みを聞かせることで終了した。景虎は「めでたし、めでたし。あとは任せたぞ」とばかりに引き揚げた。

 何事もなければ、景虎が再び関東に入る必要などない。だが──怒れる北条氏康はすぐに逆襲を開始した。平井城の憲政を再び圧迫したのである。横瀬と佐野もこれを止められない。追い詰められた憲政はまたしても越後国へ逃亡。平井城は二度奪われたのだった。

 これですべてはふりだしに戻る。天文21年(1552)の越山は、憲政の復権が目的だったが、それは「居城を取り戻す」だけで果たせないことが証明されたのである。

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