関東領主たちの記録に見える越山

 はじめての越山は、具体的内容を記す同時代の史料に乏しいが、ここではあえて近世の史料を参考に臨場的な仮説を提示してみよう

 参考となるのは佐野氏の軍記『佐野記』(栃木県令写本)である。同書によると、景虎は同年4月、「安中越中守(越前守重繁?)」の先導で上野国へ乱入して、すぐに平井城を奪還した。その後、景虎は平井城に3000余人の兵を駐留させて、6月上旬に越後国へ「帰陣」したという。

 ただし当時の史料によると、景虎は6月20日になってもまだ越後国を出ておらず、月日が事実と相違する。これはおそらく永禄3年(1560)の越山と混同した誤記である。

 同書ではこの翌年、再び景虎が越山して、下野国佐野氏の唐沢山にまで足を運んだとされている。実際にはこれが天文21年の越山であろう。この記録を起点に、景虎と現地将士の動向を拾い出していこう。

 まず景虎は、7月から8月までの間に平井城を奪還、続いて上野国と下野国の境目を巡検することにした。上杉憲政はこのとき平井城に戻ったと思われる。

 だが、関東諸士にとって、越後出身の景虎は余所者である。いくら憲政を擁して大功を立てたと言っても、関東には関東の流儀がある。他国者の若造に大きな顔をされてはたまらない。

 ここで『佐野記』は、横瀬成繁の「足軽大将・金井左衛門佐」が「無礼」を働いたため、景虎に「たちまち討ち取られた」とあっさり記している。この事件はほかの文献で詳述するものがある。軍記の『上州坪弓老談記』[巻之上]と『新田老談記』[上]である。ここからその内容を見てみよう。

 景虎は、全軍を2列行進で突き進ませるのが好きだった。その兵数は2000余人。独特の行軍様式を関東でも押し切ろうとしたが、現地にすれば迷惑極まりなかった。なぜなら越後兵たちは地理不案内で道をはみ出し、田畑を踏み荒らしていたからである。

 これを見た上野国の地侍は、傍若無人とはこのことだと不快に思ったらしく、他国の若大将に向かい、嫌味たっぷりに礼儀を教えてやることにした。地侍の名は金井左衛門佐宗清(むねきよ)。上野国の金井城主・横瀬(のちの由良)成繁の足軽大将である。

金井宗清の抗議

 金井宗清は、景虎一向が、桐生筋から足利の八幡(足利市八幡町)を通るのを馬上から見下ろしていた。これに気づいた景虎配下の侍は、血相を変えて宗清に呼ばわった。

「そなたは何者か。これほどの大軍を恐れず、我らを馬上から見下ろすとは無礼ではないか」

 金井宗清はこれに強気の姿勢で返した。

「誰かと思えば、越後の国主ちんば殿の軍勢か。拙者は新田の金井左衛門佐で、この山の番所を守ってござる。ここから足利までは由良・(足利)長尾の支配する土地であるゆえ、景虎殿には家臣と味方たちに狼藉を思いとどまるよう申し渡されたい」

 これを聞いた侍は、宗清の言葉をそのまま主人の景虎に言上した。すると関東の天地に景虎の大きな笑い声が響き渡った。

「面白いが、気の毒なことだ。現地の大将たちがわざと無礼者を遣わして、この景虎を試しているのだな。ならば今後のためにも討ち取ってくれようぞ。ひとりも生きて逃すな」

 景虎が歩兵たちに命ずると、合戦支度が始められた。驚いた金井宗清は撤退を急いだが、追い込められて自害した。宗清の寄騎である野村源七郎と梅田半九郎は「ここが死に場所と見た」とばかりに奮闘したあと、目を合わせて番所に引き上げ、百姓たちを避難させた。この間に助けを求める早鐘が鳴り響く。

 早鐘を聞いた景虎は、身の危険を感じた。敵の増援を警戒してすぐさま小荷駄隊に混ざり、「六七十騎」で岡崎山へ移ったのだ。

 景虎はそこで「青龍の備(そなえ)(隊形)」を整え、乱れた軍勢を整え直した。景虎が得意とする諸兵科連合の隊形をなしたのだろう。俗にいう「車懸りの陣」で、敵軍が迫れば、小旗・弓・鉄炮・長柄鑓・騎馬などの諸兵科を連携させて、その陣形を崩し、一気に本陣奥深くへ突き進んで、痛打を与える戦術隊形である。

横瀬成繁の現実的決断

 続々と集まる報告を受けて、横瀬成繁は応戦準備を整えた。しかし慌ててはいない。動静を慎重に観察しながら、景虎の鋭鋒を避けたのだ。46歳の成繁は、老練な現実主義者であった。

 この間に景虎は上機嫌で佐野方の城へ移った。その素早い動きに舌を巻いた成繁は「口惜しい」と悔しがったというが、本音では胸を撫でおろす思いであっただろう。

 このとき、成繁は景虎と敵対するのは危ういと見たらしい。生き延びた野村源七郎と梅田半九郎を呼び出すと、褒美として永楽銭五貫を与え、自害した金井宗清を「あれの物言いは、景虎ほどの大将に慮外千万であった」と非難した。トカゲの尻尾切りである。こうして横瀬方は親景虎方として意見をまとめた。

 なお、群馬県桐生市広沢町には「金井神(かないかみ)」に茶臼塁を守った「金井左衛門佐墓」が、近代まで残されていたという。宗清の勇気は、主人に評価されなかったが、現地では一目置かれ続けたのである。