景虎インパクト
謙信の越山はいつから始まったのだろうか。通説では謙信がまだ長尾景虎を名乗っていた永禄3年(1560)からだと言われている。しかし史料を見直していくと、実はそれ以前の天文21年(1552)にも越山している。ここではその様子を探れる範囲で探ってみよう。まずは一次史料(同時代史料)から実像に迫ってみたい。
初回である本稿では、越後国春日山城の長尾景虎、下野国唐沢山城(栃木県佐野市)の佐野昌綱、上野国金山城(群馬県太田市)の横瀬(由良)成繁(よこせ(ゆら)なりしげ)が登場する。特に昌綱と成繁は、謙信越山にあたり重要な動きをなすキーパーソンである。
北条氏康の関東進出
この頃、関東では相模国小田原城(神奈川県小田原市)
それまで関東は古河公方・足利氏と家宰の関東管領上杉氏が統治する政体を取っていたが、天文15年(1546)の河越合戦で彼らは氏康に大敗した。ここから風向きが大きく変わった。
氏康の姉妹を娶っていた古河公方の足利晴氏は、その子に家督を譲り、北条氏の外戚の座を得た。こうなると、北条氏は関東の副将軍も同然である。
同時代の畿内では、征夷大将軍を擁する「三好政権」が天下政権を担っていた。これと並んで関東では「北条政権」と言うべき地域権力が屹立していたのだ。
もちろんこれを快く思わない関東領主はたくさんいる。彼らは、越後国の才気あふれる若者に期待を寄せた。
越後国を統一したばかりの長尾景虎である。景虎は「代々の軍刀」
故郷を追われた憲政は、越後国へ亡命した。
長尾景虎はじめての関東越山
天文21年(1552)5月、上野国へ遣わした者たちが戻り、
その翌月、景虎は速やかに武蔵国の北河辺・矢嶋(
なお、このときの越山は同時代史料がほとんどないため、
だが、先述したように、景虎たちは諸将に向けて、「今度関東御出陣遠路一入御陣労」「今度関東御合力儀、早速出陣、遠路一入御陣労」と関東越山を慰労する書状を発している。このため、越山が不首尾に終わったとは思われない。ここは素直に景虎の関東越山があったと見るべきだろう。