建勲神社の本殿と神門。撮影/みかめ ゆきよみ

(みかめ ゆきよみ:ライター・漫画家)

 混沌とした戦国時代を苛烈に生きた戦国武将。彼らは神として崇められ、今なお人々の心を捉えて離しません。戦国武将のように力強く生きたい、偉業を達成したい、運にあやかりたい・・・そう思っている人も多いのではないでしょうか。そこで本稿では戦国武将が祀られた神社をご紹介します。

織田信長:建勲神社(京都)

 建勲神社(けんくんじんじゃ)は織田信長を祭神にした神社。嫡男の織田信忠も配祀されています。明治2年(1869)に明治天皇の命により創建。船岡山の中腹に位置します。

 船岡山は四神相応に基づく「玄武」を象徴とする聖地。そのためもともとは信長の家臣・豊臣秀吉が指定した信長の廟所でした。

 大徳寺にて信長を弔う大法要を済ませた秀吉は、この地にも寺を建立しようとしました。しかし建立途中で中止となり、完成することなく明治時代を迎えます。長い時を経てようやく信長を祀る神社ができたのです。

建勲神社の拝殿。撮影/みかめ ゆきよみ

 建勲神社に行ったら本殿手前の拝殿の内側に注目してください。四方に武士の絵が飾られています。これは織田信長公三十六功臣のうちの十八功臣の絵です。

 信長は旧態依然とした考え方を嫌い、有能なものは身分に関係なく登用したといいます。ここに描かれた家臣たちも身分の上下関係なく選出されています。三十六功臣の絵は池田信輝の末裔である森本後彫氏が描いたものです。

豊臣秀吉:豊国神社(京都)

豊国神社の唐門(国宝)。撮影/みかめ ゆきよみ

 豊国神社は豊臣秀吉を祭神にした神社。豊臣秀吉は慶長3年(1598)に63歳で死去。その遺体は東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、豪華絢爛な廟社が造営されました。

 しかし慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。豊国神社及び豊国廟は徳川家康によって破却され、明治までそのまま朽ちるに任せた状態でした。

 明治になり、現在の位置に社殿が再建され、豊国神社として復興を遂げました。国宝である唐門は秀吉が築城した伏見城から移築したもので、豪華絢爛な桃山文化を今に伝えています。境内奥の宝物館には秀吉ゆかりの遺品が展示されているので、こちらも忘れずに立ち寄りましょう。

豊国神社は旧方広寺大仏殿跡に建てられました。方広寺といえば、豊臣家滅亡の引き金になった梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が有名。現在も豊国神社の隣にあります。撮影/みかめ ゆきよみ