佐野鼎のその後の人生に大きな影響を与えることになるヘンリー・ウッドは、このとき64歳。1796年、ニューハンプシャー州に生まれ。ダートマス大学で学位を取得後、プリンストン神学校で神学を学び、20代のとき大学でラテン語とギリシャ語の教員を勤めました。

 プロテスタントの牧師になったのは30代でしたが、ジャーナリストとしての顔も併せ持ち、牧師をしながら、記者の仕事を両立していた時期もありました。

 その後、米国海軍に所属し、1858(安政5)年からはポーハタン号付きの牧師として世界各国を航海しながら、アメリカの新聞『The New York Journal of Commerce』にもたびたび記事を送るという旺盛な好奇心と軽いフットワークの持ち主だったのです。

 ウッド牧師の名前は、佐野鼎の日記にも登場します。また、洋上から江戸の友人に宛てた手紙の中には、アメリカへ向かうポーハタン号の上で、英語を学んでいるという話が綴られています。

「ニューヨーク・タイムズ」で絶賛された佐野鼎の英語力

 ウッド牧師から直接英語を学んだのは、パナマに至るまでの2カ月あまりでした。そこから彼らは蒸気機関車で大西洋側に移動し、アスペンウォールからは別の米軍艦に乗り換えて、ワシントン、ニューヨークへ移動します。

 おそらくその間も、佐野鼎はアメリカ人と積極的に接し、どん欲に英語を学んでいったのでしょう。

 なんと、『ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)』(1860年6月25日付)には、佐野鼎に関するこのような記事が残されているのです。

<ニューヨークにおける日本人>
『佐野鼎は、役人の中でもっとも聡明な人物の一人で、英語に多大な進歩を示し、情報を得ることにたいそう興味を持っている。彼は土曜日に手話術用のアルファベットを習ったが、彼によれば、手話法はまだ日本では知られていないという。彼は、ガヴァナーズ・アイランドを切に訪れたがっており、また戦術に関するたくさんの書物を探し求めていた。(以下略)』(開成学園創立130周年記念行事運営委員会校史編纂委員会編『佐野鼎と共立学校―開成の黎明―』より抜粋)

「尊王攘夷論」が高まりつつあった幕末の日本から離れ、太平洋上で揺れる船の中、時間を惜しみながらアメリカ人から懸命に英語を学んでいた佐野鼎。人間、学ぶ気力があれば、わずか数カ月でアメリカ人から「多大な進歩を示し・・・」と評価されるほど、英語を身に着けることができるのですね。

 辞書や英語教材に囲まれながら、何年間も授業を受けてきたのに、一向に進歩しない自分の英語力が情けない限りです。

 萩生田大臣は、冒頭の「お詫び文」で、

『新たな英語試験については、新学習指導要領が適用される令和6年度に実施する試験から導入することとし、今後一年を目途に検討し、結論を出すこととします』

 と記載しています。

 これから英語の勉強を積み重ねていく若者たちには、国の迷走に惑わされず、幕末、「英和辞典」も「和英辞典」もない時代に、こうして懸命に英語を身に着けたサムライたちがいたことを、ぜひ知っていただければと思います。

*来る11月10日(日)、佐野鼎の生誕地富士市において「講演会・富士が生んだ幕末の国際人、佐野鼎」が開催されます。本連載執筆者の柳原三佳も登壇の予定です。
http://faq.city.fuji.shizuoka.jp/webccgjpub/dtil/000131/DTL000131734.htm(富士市HP)