「正則英語」とは、発音、会話中心の学習で、いわゆる“ネイティブな英語”のことです。佐野鼎はそれを生徒たちに身につけさせるために、日本人教師のなんと13倍という高い給料を払って、外国人教師を複数名雇い入れています。

 ちなみに、「正則英語」に対して「変則英語」という言葉があるのですが、こちらは翻訳や文法を中心に学ぶ方法をさします。洋学の気運が急激に高まりつつあったこの時期においても、多くの学校では和訳偏重、ローマ字読みで、発音や会話、英作文の学習は後回しだったのです。

 たとえば『one day』を『オネダイ』、『United States』を 『ユニテッドスタテス』、『unique』を『アニキ』・・・。笑い話のようですが、そんな“英語”が飛び交っていたと言います。

 では、鎖国状態にあった幕末から明治初期に生きた佐野鼎が、なぜ、あの時代にいち早く「正則英語の必要性」を痛感していたのか・・・。

 その理由はやはり、1860年、『万延元年遣米使節』の随員としてアメリカの地を踏み、アメリカの軍艦で地球を一周した経験があったからでしょう。蘭学を修め、オランダ語の知識しかなかった彼は、まさにこの旅でアメリカ人と初めて接し、英語を本格的に学ぶことになったのです。

アメリカ人牧師に船上で英語を習う

『開成をつくった男、佐野鼎』(柳原三佳著・講談社)の中には、米軍艦「ポーハタン号」の中で佐野鼎ら使節団の一員が、ヘンリー・ウッドというアメリカ人牧師から懸命に英語の指南を受けるシーンが出てきます。

 江戸を発って16日目の朝、その英語伝習はポーハタン号の甲板に建てられたにわか造りの小屋を使って始まりました。

 朝9時から正午まで、午後は4時から5時半まで。日曜を除くほぼ毎日、休憩もほとんどとらず徹底的に行われたようです。

佐野鼎が英語を学ぶときに使った可能性がある「スペリングブック」

 もちろん、当時は「英和辞典」などありません。いったいどのように学んでいたのでしょう。今の私たちには想像できませんが、この先、英語の必要性を痛感していた彼らは、ウッド牧師の発音を聞き洩らさぬよう、口元の動きと黒板の文字を凝視しました。そしてその言葉を復唱しながら単語をアルファベットで綴り、日本語の意味、そして、後で発音を復習できるよう耳で聞いた発音を、以下のように、そのままカタカナで書きとめていきました。

「forty → 四十・ハウテ」「fifty → 五十・ヘフティ」「sixty → 六十・セキステ」「seventy → 七十・セムティ」「one hundred → 百・ワンハンレイテ」「one thousand → 千・ワンサウセンテ」「million → 百万・メネル」「rain → 雨・ライン」「wind → 風・ウヰンド」「sea → 海・セー」「lake → 湖・レイケイ」「book → 書籍・ボーク」「fight → 戦(イクサ)・ヒウト」

 揺れる船の中、筆を使っての筆記は乱れることもあったでしょう。しかし、彼らは真剣な姿勢で英語に取り組んだのです。

小栗上野介の従者・佐藤藤七の英語メモ(小栗上野介の菩提寺「東善寺」で筆者撮影)