日本の我が家にも、ときおり広東の親せきから手紙が届いた。中国政府の検疫済みの印が押された粗末な便箋には、短く「金を送れ」と記されていて、父は5000円を送金した。その金で親せき全員が半年間食べていけるのだと、父は言った。

 香港のおばさんは年に1度里帰りしたが、その都度、パンツを7枚、肌着を4枚、シャツを3枚、上着を3枚重ね着して、持てるだけの雑貨と食べ物、香港ドルを運んだ。「すぐに群がる親せきたちに身ぐるみ剥がされた」と、おばさんは悲しそうに語っていた。

一国二制度を信用せず海外に逃れた中産階級

 中国の政治運動は30年続いた。1951年~1953年の三反五反運動、1956年の「百花斉放・百家争鳴」運動と翌年の「反右派闘争」。1958年の「大躍進運動」では科学知識や市場原理を無視して農民に鉄を生産させて大失敗。三年に及ぶ干害が重なり、農作物が収穫できずに大量の餓死者を出した。1966年から10年続いた文化大革命では、国民が互いに殺し合い、犠牲者総数は推計で8000万人とも1億人ともいわれている。

「文革中は、広東省から珠江の流れに乗って、毎日何百体もの遺体が香港に流れ着いたのよ」と、おばさん。香港の人々はただ黙々と遺体を回収し、荼毘に付したのだ。

 80年代に鄧小平の改革開放政策が始まると、経済は少しずつ好転したが、海外渡航を許された大陸の人々が、小金を懐に香港へ押し寄せた。最初は漢方薬、金製品、衣類、電化製品を買い占め、次いでマンションを買い漁り、資産を香港経由でアメリカへ闇送金した。密入国して居座る者たちは後を絶たず、貧困層が激増したが、彼らは香港に5年居座れば居住権を得られることを熟知していた。

 1997年の「香港返還」は、阿片戦争以来、香港を植民地としていた英国が99年間の租借期限を迎えて、香港を中国へ返還する歴史的エポックだった。中国は「一国二制度」を宣言し、今後50年間は香港にこれまで通りの自由な社会体制を維持すると約束した。

 だが、中産階級の人々は信用せず、大挙して自由主義国へと逃れていった。その数約40万人~80万人。親せきのおじさん一家はオーストラリアへ移住し、友人のケティ一家もカナダへ引っ越した。香港に残った友人はわずかだ。それと入れ替わりに、中国大陸から富裕層と貧困層の両極の人々がやってきた。マンション価格は高騰し、もはや一般の香港人には手が届かなくなった。

香港の街並み

 五つ星ランクのベニンシュラホテルの喫茶ラウンジでは、以前ならボーイさんと目が合っただけで素早く駆け寄ってきて、「Yes, Mam」(「Mam」は女性客にたいする敬称)と言って注文に応じてくれたが、返還後は古株のボーイさんも姿を消し、客などそっちのけでお喋りに興じるボーイさんが増えた。

香港を埋没させる「粤港澳大湾区」計画

「一国二制度」は、数年たたずに揺らぎだした。

 香港の繁栄を支えてきたものは「言論の自由」と「自由な経済」と「司法の独立」の三つだったが、まず「言論の自由」が侵された。メディアへの嫌がらせが始まり、新聞社や雑誌社の経営者、記者、編集者たちに脅迫文が届き、包丁や爆弾入りの荷物も届いた。やがて露骨な恫喝、暴行、ひき逃げ、家宅乱入などが発生し、中国取材に出掛けた香港の記者たちが消息不明になった。2015年、銅鑼湾書店の経営者や店長ら5人が広東、香港、タイから相次いで失踪し、後に全員が中国によって拉致・監禁されていたことが発覚した。