信頼「できる/できない」で分けない

 もうひとつのキーワードは、「信頼しないけれども、信頼する」ということ。誰かを「信頼できる相手」と「信頼できない相手」に分けるのは、我々の世の中では当たり前のような気がする。しかし、カラマの周囲は違う。誰も信頼できない、というのが鉄則だ。しかし、同時に、誰もが状況によっては信頼できる、ということも同じだけ正しい。

 誰も信頼しないのだから、基本的に彼らはばらばらである。だが、場合によっては信頼するのだから、常に繋がっているともいえる。たとえば、香港で客死したタンザニア人がいた場合、親しくなかった人までもがお金を出し、遺体を本国に送還する。このように、基本的にはきわめて親切な互助的コミュニティーが築かれている。

 すこしイメージしにくい。というよりも、そういう考えに基づいて行動するのはいささか難しそうな気がする。しかし、香港で仕事をするタンザニア人は、一攫千金を夢見て貧しい状態でやってきた不安定な人々だ、ということを忘れてはならない。褒められたことではないが、自分の生活のため、やむを得ず裏切ることもある。

 自らがそうだったのだ。他人を裏切らなければ生きていけないような状況に陥る可能性があるということを、身をもって知っている。本人の努力ではいかんともしがたい時にとんでもないことをしても許してやろう、裏切った奴であっても状況がかわれば信じてやろう。いわば寛恕の精神である。

 そのような結びつきだから、信用格付けのための無駄な競争は不要である。逆にいうと、少々いい加減にしていても大丈夫だ。それに、もっと大事なことは、こういうシステムだと、誰にだっていつかチャンスが回ってくるということ。ある種のセイフティーネットである。なるほど、何が起こるかわからない香港の魔窟で生き抜くために、「信頼しない」と「信頼する」を共存させるというのは、素晴らしい考えではないか。

一般論とは異なるトータルとしての原則

 ただし、カラマの周辺はきれい事ばかりではない。他人を利用しようとする輩や騙そうとするような輩はあとをたたない。在留資格を得るために書類だけの結婚をする人がたくさんいるし、売春婦の稼ぎをあてに暮らす人もいる。そんな中、大成功する人がいる一方で、帰国費用さえ捻出できない人もいる。

 しかし、ふたつのキーワードから導かれる原則はこれに尽きる。

“私があなたを助ければ、だれかが私を助けてくれる”