まだ日本が鎖国状態だったこの時代、パナマ地峡で氷入りのワインを飲んだ日本人は、彼らが初めてに違いありません。

「氷だ! 氷が浮いておる」

「いやー、まことに冷たく、美味じゃ」

 そんな彼らの歓声が聞こえてくるようです。

 中には嬉しそうに、氷をかみ砕く者もいたかもしれません。

『それにしても、なぜ赤道に近いこの地に氷があるのか・・・?』

 佐野鼎はおそらくそのことも店主に尋ねたのでしょう、氷が切り出される場所から輸送方法まで、日記に詳しく記載されているのには驚かされました。

パナマからアスペンウォールに至る蒸気機関車への移動中、沿線住民は熱狂して手を振っていた(『玉虫左太夫「航海日録」を読む』より)

あまりの暑さでアメリカ人水兵が次々病死

 この駅のレストランで、牛肉、豚肉、鶏肉の揚げ物とパン(日記では「麺餅」と表記)の豪華な昼食をとった彼らは、再び汽車に乗り込みます。そして、夕方には大西洋側のアスペンウォールという駅に到着しました。

 全長77キロの道のりを約3時間で走破……、日本では、まだ駕籠や飛脚が行きかっている時代です。その速さに、使節一行から驚きの声が上がったのも無理はありません。

 アスペンウォールの港には、アメリカ側が用意した大型の蒸気艦「ローノーク号」が、酷暑の中、日本人使節たちの到着を数カ月前から今か今かと待っていました。使節団一行はここからこの船に乗り換えてさらに北上し、ワシントン、ニューヨークをめざすことになるのです。

 実は、あまりの暑さのせいで、ローノーク号の水兵の中には体調を崩す者が続出し、死者も数名出ていたようです。

 幸い、日本人一行には死者は出ず、赤道付近の酷暑を何とか乗り切ることができたようですが、さすがに35度を超える暑さは各人、身体に堪えたようです。当時の航海は、まさに死と隣り合わせだったのですね。

 とはいえ、冷静に考えてみれば、今の日本の夏は、当時の赤道付近の気温をはるかに超えているということに・・・。

 まだまだ厳しい暑さが続きそうですが、私も佐野鼎に倣って「氷入りの葡萄酒」で、何とか夏を乗り切りたいと思います。