「本能寺の変」後、後継者を決めるために家臣が集まった清須城。(筆者撮影)

本能寺の変後、集まった4人の家臣たち……

 清須(清洲)会議といえば、天正10年(1582)6月2日未明におきた本能寺の変で、織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれたあと、主君を失った織田家の家臣が集まり、後継者を決めた会議として知られる。場所が清須城だったために、後世、清須会議とよばれたものである。映画にもなるなど、広く人口に膾炙している。

 しかし、この清須会議というのは、記録がほとんど残されていないため、詳しいことはよくわかっていない。清須会議について、最も詳しく記録しているのは、秀吉に仕えた田中吉政の家臣・川角三郎右衛門が江戸時代初期に著した『川角太閤記』くらいである。よく知られている清須会議というのは、この『川角太閤記』の書かれた内容に基づいている。

 しかしながら、『川角太閤記』がすべて事実をありのままに記しているとは限らない。清須会議の当時に書かれたものでもなく、そもそも、秀吉の事績を称揚するために書かれたいわゆる太閤記の一種であり、秀吉を持ち上げるために書かれたことにも注意する必要がある。

 ほかに清須会議について詳しく記した史料はないため、以下、この『川角太閤記』によって清須会議の経過をみていくことにしたい。

『川角太閤記』によれば、この清須会議を招集したのは、柴田勝家であったという。織田家の家臣ではナンバー1の立場にあったから、招集する立場にあったのは確かであろう。柴田勝家の呼びかけによって集まったのは、丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興の3人であったとされる。

 丹羽長秀は、柴田勝家と同じく、信長の宿老であり、織田家臣団のなかではナンバー2の座にあったとみてよい。会議に参加する資格は、十分にあったといえる。

 そして、羽柴秀吉も「山崎の戦い」で明智光秀を討ったことで、家臣団のなかでも発言力を高めていた。参加するのは、当然だろう。

 池田恒興は、実母が信長の乳母であった。信長がまだ乳児のころ、乳母の乳首を噛みきってしまい、恒興の母が乳母になってからはおさまったという話でも知られる、あの乳母である。信長とは乳兄弟の関係にあり、参加していたとしても不思議ではない。