織田家、ふたりの有力な家督後継者
信長には、10人以上の男子がいたとされるが「本能寺の変」の時点で成人していたのは、長男の信忠、次男の信雄、三男の信孝の3人だけであった。長男の信忠は、本能寺の変の際に自害していたから、残る次男の信雄と三男の信孝が最有力な家督継承者であったことは間違いない。
次男の信雄は、母が兄の信忠と同じ側室の生駒氏だった。正室というわけではなかったが、信長の寵愛を受けており、家督を継ぐ最有力な候補であったのは確かである。これに対し、三男の信孝の母は、信雄とは異なる側室の坂氏だった。江戸時代に記された地誌『金鱗九十九之塵』によると、信孝は信雄よりも20日ほど早く生まれたが、信雄の母である生駒の方が正室の扱いをうけていたため、信孝のほうが三男にされたのだという。信雄と信孝は、ともに生まれは永禄元年(1558)だった。
長幼の順からすれば、次男の信雄が妥当である。しかし、信雄は、父信長に無断で伊賀国(三重県)に侵攻して失敗するなど、勘当されそうになったこともあり、家臣の評価も高くなかったらしい。そのようなことから、信雄を家督に推す声は、大きくならなかったようである。
会議の場で最初に見解を述べたのは、招集した柴田勝家である。
勝家自身は「三七様(信孝)然るべからん」と信孝を推している。この見解に対し、異論を唱えたのが秀吉だった。秀吉は、「城介(信忠)様の若君(三法師)御座候上は、三法師様御取り立てなさるべき事、ごもっともかと存じ候」と、信忠の嫡男三法師がいるのだから、三法師にするべきだと発言したのである。
たしかに、「本能寺の変」の時点で、織田家の家督を継いでいたのは信長の嫡男信忠であり、その嫡男である三法師はわずか3歳であったが、名目的な当主であるのなら問題はない。
丹羽長秀も、「筑前守(秀吉)申す条、筋目ただしきかと存じ候」と秀吉の見解に同意した。池田恒興も、丹羽長秀の言う「筋目」、すなわち正統性に賛意を示したため、勝家は「目出度く三法師様を天下人に、各我らをはじめとして仰ぎ奉るべき覚悟なり。めでたしめでたし」と語ったという。
こうして、三法師が織田家の家督を継ぐことが決まり、最後は秀吉が三法師を抱きかかえて織田家の家臣に忠誠を尽くさせたというのが、『川角太閤記』の記す会議の顛末である。