柴田勝家はかくも簡単に翻意したのか?

 柴田勝家は、「筋目」をもちだされて、信孝を家督にするという提案をいとも簡単に引っ込めたということになるが、はたして、そんなに簡単に納得したとも考えにくい。勝家は、信孝の烏帽子親、すなわち、元服をするときに烏帽子をかぶせる役を務めており、いわば後見人であった。信孝が家督を継ぐことにより、勝家は織田家中の実権を握ることもできたのである。勝家が、秀吉に歩みよりをみせたのが事実ならば、翌天正11年(1583)に「賤ヶ岳の戦い」はおきなかったのではあるまいか。

 清須会議について、小瀬甫庵の『甫庵太閤記』には、「旧臣の面々、残らず御若君へ続目の御礼申し上げんため、尾州へ下著有しなり」とあり、会議があったとも記していない。家督を三法師が相続することが知らされたあと、家臣らが順次、清須城に赴き、相続のお祝いを申し上げたのが実際のところだったのではなかろうか。

 家督は三法師が継ぐというのが織田家臣の共通認識だったのであれば、わざわざ4人が集まって会議をする必要もなかったように思われる。